nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真展】地平「大阪」@ビジュアルアーツギャラリー大阪

【写真展】地平「大阪」@ビジュアルアーツギャラリー大阪

かつて「地平」という写真同人誌があった。1972年に創刊され、撮ることを挑発的行為と呼び、写真作家らは都市の路上を撮った。5年間で10号まで刊行され、休刊となっていたが、2018年6月に復刊され、この11月には大阪での写真展となった。

舞台は大阪。20代から70代までの作家7名が2ヶ月をかけて、新たな挑発に挑んだ。

 

多様性の時代にあっては、都市を撮るという行為一つとってもその解釈はいくらでも定義できる。作家の数だけ都市の姿があり撮るという行為の幅がある。本企画では、路上を旨とする都市空間でのスナップ撮影が主として再考されていた。勿論その枠に収まらない作家もいて現代らしさを感じるが、改めてスナップによって切り取られた現在の都市・大阪は一体どんな姿を見せるだろうか。

 

カメラはぼくらの武器だ。自己表現に終止する回路を断て。

 

写真は閉塞した感性を脅す凶器のようなものです。

見たいのはきみの写真でなく、きみの写真が開示する世界なのです。

 

「地平」初期メンバーの一人、黒沼康一のアジテーションが会場入口に掲げられている。なぜかこの1972年の言葉は路上スナップという行為と合わせるとき、今なお色褪せない力と熱を帯びる。挑発のアジテーションも路上のスナップも、どちらも70年代的な態度なのだろう。都市でのスナップ、瞬間を荒々しくも掠めとる行為が最近あまり見られなくなったのは、プライバシー時代の監視・通報社会ゆえの難しさもさることながら、写真行為に期待される意味や効果が別のものへと移行したためかもしれない。PROVOKE、森山大道に代表される世代がやり尽くした「行為」の後には、写真は現代アートとの融合を果たしてしまった、あるいはinstagramに代表される半ファッション半自己表現の自己プロデュースの手段と化した、そのためだろうか。しかし今なおスナップ写真は、写真に関わる全ての人を誘惑し狂わせる魔性の力を秘めている。特に都市に対しては。 

本展示ではまさにソリッドな、かつ土着的な写真行為――絵画でもなく、アートでもなく、ピクトリアリズムでも、コンポラでもない、都市の隙間、「瞬間」へするどく関与する行為そのものとしてのスナップ写真を見ることができた。謎に胸が熱くなる。都市という時空間へ、一見つるつると流れゆく機械的な日常へ、しかし凝視すればするほど不可解でザラッとしたものへ、直接眼と指を介入させるような営みだ。 

 

最初に断っておくと、以下の短観は、展示されていた各作家の作品について、作者の経歴や制作意図を調べずに、作品に触れたままに書きつけたものである。

 

◆山田省吾

路上で通過し交錯する存在を掠めとるモノクロ作品。目がよく合う。目がそこにある。視線は噛み合ったりかわされたりし、物語が始まりそうなところで留保される。人々の目の先にはその個々人が生きる日常の物語があり、それをやや斜めから切り下ろしたところの断面がここに集められている。まごうことなき日常ながら、不思議な世界が垣間見える。

時折、人がごく小さい。あるいは無人で、機械の点滅や文字、断裂したオブジェだけのカットがある。その曖昧な、しかし退かしようもなく目に飛び込んでくる、「無」が視界に紛れ込む感じが、また都市の路上そのもので好ましい。

 

◆百々俊二

白黒とカラーの2部構成から成る。

白黒シリーズでは、ある一人の女性が鶴橋駅界隈を散策している。ガード下で発達したこの界隈は戦後のドサクサ感、陰と活気を色濃く残し、また焼肉屋に象徴されるコリアンタウンとしての異国感も漂わせる。JRの高架下に発達したマーケット、その周辺も雑居ビル・看板・電線の密集によって天を塞がれたこの街を、女性はするりと歩いてゆく。昭和が凝集してできた過去的な空間を、潜り抜ける魚のように泳いでいる。ノスタルジーに陥りそうな背景を、彼女の生気が「今」へと巻き返してゆく。

カラーシリーズでは、現代の多国籍化した大阪の顔ぶれを捉えている。今、「何でもあり」の路上をもっとも如実に語るのは、ここそこに現れる様々な顔と言語、すなわち外国人観光客かもしれない。元気で自由なのはだいたい外国人だ。我々日本人は、ハロウィンやメジャースポーツでの快挙など、大がかりな口実がなければ路上で自由に振る舞えないのかもしれない(まるで江戸時代だ)。白黒シリーズとは対照的な「今」の表し方を感じる。

この写真群の中で一枚だけ、個人としての表情をはっきりと表すカットがある。幼子の目のアップの写真で、作者の格別な思いがあったのだろうか。その顔は半分以上が影に隠れ、日は眼だけを照らし、そこに映る感情は喜怒哀楽では割り切れない。この雑踏の先にあるもの、未来の日本を疑問混じりに見ているようにも写る。

 

◆浦芝眞史

都市空間ではなく都市生活者、作者自身の身体や身なりを通したテーマでの作品。他の作家らと異なり、路上ではなく廃校か古アパートのような場、密室で、秘め事のように作品が撮られている。

作者は身体的にはごつごつとした体躯の男性であるが、その髪型や衣服、下着は女性のものだ。肌を露にし、確信犯的に女性さながらのポーズをとり、どこか恍惚の表情を浮かべている。更には、女性化した自身の写った作品を、廃校のような一室に貼り出し、洗面台のへりに垂らし、秘められた言葉=自身の性を、密室で吐露するように提示する。だがそれは留めようもないほど溢れかえっている。

後ろ姿、背中や臀部、手の仕草は明らかに女性を思わせる。ただし、内面が女性なのか、女装家なのか、そうしたジェンダーの揺らぎ、交換可能性をあえて演出しているのかは、明確には判別できない。うっとりとした自信に満ちた眼差し、よい背丈の尻や背中のラインが印象に残る。これは、誰にもカミングアウトできない内情を写真でなら語れるということなのか。それとも別の意図があるのか。あまりに堂々とした、意思を秘めた表情と立ち姿は、価値観や生き方の多様化を謳いながらも、女性や男性といった役割、装いが、いかにこの社会で固定的に扱われているかを指摘・検証するための、社会的な実験であるかのようにすら見える。

 

◆野口靖子

どこか優しさのあるスナップ作品群。都市の路上、往来を切り取るスナップの文体でありながら、人々の往来の流れそのものを撮っていて、作者は写された各人の流れを遮らずに、まるで見守っているかにも見える。

横顔や後ろ姿の続く中で、飲食店のカウンターが頻出するのが面白い。食べているときの生活者の無防備を突いたような、大阪の食の感性を表したような瞬間である。古い横丁もあれば、グランフロントやリニューアル後のJR大阪駅のような、今ならではの場所もあり、作家が大阪を歩き回っている様子を想像するのも楽しい。

 

◆赤鹿麻耶

異彩を放つカラー作品群だ、日本離れした色彩と配置のセンスに、これが大阪なのかと驚かされる。この「地平」のテーマに括られていなければ、海外の留学生の暮らしと、海外に住む日本人とを並列したテーマと誤解したかもしれない。

戦後半世紀をかけて日本が完成させたアメリカ化、欧米の亜種としての生まれ変わり。その完成形を見せ付けられた感がある。ここは日本で、しかも私の住む「大阪」だ。だがこれのどこに「日本」がある? 

まるでカタログから切り出してきたイメージを、生活の隅々、娯楽都市インフラから衣食住のディテールにまで、その表皮にぴったりと貼り合わせている。隙のない幸福論、つやつやとした清潔でカラフルで、行き届いた商品天国。とうとう「消費」を超えた次のステージに来たようだ、暮らし自体を「商品」のレベルに高めたのだ。作品はどれもインスタ映えならぬファッションカタログ映えをしたビジュアルとして、我々の暮らしの様子を切り出している。

 

◆安部淳

本展示で最もカオスの妙味を感じた。都市の秘めた得体の知れない瞬間を見事に断ち切って示し、そのラディカルさはまさに「挑発」行為だ。写真が「行為」として体現されていて、作家の生理と都市の生殖とが擦れ合う瞬間に生じた音として、こうした写真がこぼれ出たようにも感じる。日々の通勤、移動の場=都市が、かくもカオスな踊り場だったとは。やや古典的な昭和の名作写真集を読んでいるような錯覚に陥るが、しかしこれは平成最後の、今現在の大阪で撮られたものなのだ。非常に混乱させられて面白い。さきの赤鹿氏の示したビジュアルと対比してみると、180度意見を転回せざるを得ない。この国は日本であり、世界のどの国と比しても、ここは日本でしかありえないという、全く真逆の実感である。「今」に「昭和」なる日本の系譜を見い出し、体現せしめるその眼と指には脱帽させられる。

 

◆松岡小智

カラーでA3ほどのサイズにより、都市の享楽的な表情を捉えている。ノスタルジーでも批判でも実験でもない目線が、野口氏同様にどこか根底から優しく、男性らの視座とは性質が違うことが興味深い。その違いは何から来るのか?というと、被写体への共感・共鳴がベースにあるように感じる。ひいては、撮られたシーン、その場に対しても、自分達が自由に振る舞い、戯れられる場=居場所として共感しているようだ。祭、路上、コンサート会場、路上のパフォーマンス、電車内、ゲームセンター。どれも場所だけを見れば他の作家達と同じチョイスなのだが、この作品ではひときわ、めいめい楽しそうだ。満足げで個性の漂う瞬間、原宿などとはまた異なり、かっこよくないが、そこがまた大阪らしさで、楽しい個性が溢れている。

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総じて面白かった。というよりもこのような真っ当なストリートスナップを久々に見た。最近、大阪でも東京でも痛感するのだが、外国人観光客以外で、街でカメラをむき出しにしてみだりに撮影している日本人を、まるで見ない。皆、ウイルスにでも感染して死んでしまったのではないか。取り残され感が強くあったのだ。

路上の写真家はどこへ行ってしまったのだろうか。その割に、アートイベントや紅葉などになると視界に入る人間の半数以上が良いカメラを首から下げていたりするので、別にウイルスで絶滅したわけではなさそうである。そのはずなのだが、都市の路上に写真家はいない。いるのは監視カメラと警備員ばかりである。

とにかく、都市をみだりに撮る輩、不審で、反権力的で、挑発的で、偽札を好んで濫造するような輩が、もっとたくさん現れてほしい。この写真展は私にとって希望の再発見であった。都市の内側で、何もないところにカメラを向けることの、野蛮さと挑発。それが人類種のスタンダードな振る舞いだと、都市に学習させなければならない。都市は、人の動きをよく見て学習している。見慣れない動き、振る舞いは「危険」の予兆として学習する仕組みが、世界各国でも導入されている。都市でみだりに撮影をする奴がいなくなったら、それはもう人類の衰退というか、都市の言いなりになり、駄目である。

勿論、挑発の責任は引き受ける必要があり、行為の成果は作品で示す必要があろう。それをここにいる作家諸兄は、展示と写真集という形で果たしているので、そこがまた痺れるのである。