写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生&TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【写真】木津川アート2018(林直「きおくの記録 ~みかのはら~」)

【写真】木津川アート2018(林直「きおくの記録 ~みかのはら~」)

林 直(ただし)氏の眼差しと作品の雄弁さは、どこか老成したウォーカー・エヴァンズの滋味があった。 

林氏の写真は、暮らしの記憶のディテールを掴んで離さない。被写体は、作家自身の生まれ育った故郷であり、「木津川アート」の舞台であるここ、瓶原(みかのはら)だ。作品の世界は、追憶の中にのみ残された日本の情景のように写し出されているが、それらは今まさに来場者が目にしている瓶原の風景そのものである。

 

 

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展示構成は、古民家の納屋から土間、そして上がり框から居間へと至る経路に沿って展開される。土間には、奈良・瓶原の風景、暮らしの環境、そこに暮らす人々が、額装された写真で提示され、スライドショーでは古いアルバムから抽出された写真が流される。靴を脱いで居間に上がると、古くから暮らしの場となってきた家屋のディテールの写真が家財道具の合間に掲げられ、テーブルには地元の住民らを正面から撮った小ぶりの作品群が並んでいる。

瓶原のまち、家、暮らしが、古民家の内部で再現される。まるで失われた「日本」の風景――思い出、あるいは皆の中にイメージとして共有された、古き良き素朴な「日本」のように見える。

だが、これらの写真は思い出ではなく、「今ここ」の現実の風景である。奇跡的なことだが、日本の多くの場所で失われた光景が、ここでは現役なのだ。本展示の会場である炭本光雄邸、その他の展示会場となっている古民家や、その道中で目にするまちの風景が、まさにこの作品の世界そのものなのだ。多くの地域では失われてしまった素朴な「良さ」が、この瓶原には日常として今も生きている。

 

林氏は紹介文でこのように語る。

 (中略)まもなくJR加茂駅周辺の再開発にともない、周辺の風景や生活スタイルは大きく変化しました。それは私にとって原風景の喪失であり、その後は辛く味気のない撮影行為となりました。それから暫く私は別のモチーフに向かい、生活の場として過ごしつつも、積極的に撮影することがなくなりました。長い失恋のような時間ののち、再び向き合いはじめた周囲の風景はやはり温かく私を迎えてくれました。とくに恭仁大橋を渡ったこちら側の風景は20年もの時間を経ても大きな変化をすることなく、レンズに向き合ってくれることに私は驚きを覚えました。

 

つまりこの作品は、失われゆく生まれ故郷の再発見と、記録のドキュメンタリーである。

まさに、私は瓶原を歩いていて「原風景」をひしひしと感じていた。歩き始めて10分、15分と経つうちに、心身に変調が来たのをはっきりと自覚した。まるで小学生低学年に戻ってゆくような、弾むような軽さ。「そうだ、おれの地元だ」「地元は本当は、こんな感じだった」、その確信を取り戻していったのだ。

目にする田畑の連なる広がりとかたち、香り、籾殻や土と焚火の煙の混ざりあう風景は、私の体に眠っていた地元感を思い出させた。いつの間にか、この10~20年の間に、私の地元は異様な勢いで田畑と竹林が消え、宅地造成一色になってしまった。緑と土の代わりに風景を占めるのは、吹けば飛ぶようなレオパレスなどの単身者用賃貸物件や、同質性の高い戸建て住宅である。その記憶がいつしか、私にとっての地元の記憶として定着していた。記憶は、絶えず新陳代謝に晒されており、生まれ故郷とその記憶は、漂流者のようにどこかへ失われてしまうのだと気付いた。

関西においては、主要都市の周辺の再開発が地味に進んでいる。これまで人の少なかったはずの大津や木津も、いつの間にかベッドタウンとして開発され、新しく機能的に生き返るとともに、均質化が進行している。交通事情が向上し、意外と大阪・京都へスムーズにアクセスできるようになっているらしい。ニュータウン化の進行とともに、私たちの「原風景」は間違いなくまだまだ消えてゆくだろう。更新され続ける風景は、いつしか記憶をも上書き更新していく。

日常の風景はOSのバージョンアップと同じく、日々、徐々にアップデートされ、以前の版がどんな場だったか、どんな機能があったかをそのうち全く思いだせなくなる。「今」が原点を押し流し、記憶は絶えず「今」を基準に再設定されるのだ。この流れに抗うことは難しい。日々を生きるので精一杯だ。原点となる「きおく」と心身との結びつきを回復させるチャンスは無いのだろうか。

  

だが、作品を見つめていると、単なる「懐かしさ」や郷愁、古き良き日本などという印象だけでは語れない力も受ける。それぞれの写真のなかで、像が動いて生きている。それが、冒頭でエヴァンズを持ち出した理由だ。

竹の根元、藪に飲まれてゆく家屋の瓦と木戸、石垣、そして古い木造家屋の端々から切り取られた名もなきディテールの表情…これらが像として命を持って浮かび上がる。それらは記録としての「瓶原」からも、「日本」の郷愁のイメージからも独立した存在感として、我々の眼前に立ち上る。言葉で、既視感では捕捉できない。物は古いが、今そこに像として在る。過去の思い出の写真ではない。物理的な過去(記録)とも、心理的な過去(記憶)とも一定の距離を置いたところで、宙吊りにされている。 

「よい写真」の定義とは何だろうか。私はこの宙吊り感のことだと思う。他のメディアでは語り得ない事柄について語っていて、その語り方が、何かの存在を、その匿名性と独自性を保ったまま――宙吊りにしていることだ。矛盾したことが、一枚のメディアの中で成り立っていること。離れ業だ。エヴァンズはFSAの記録活動の中でそれを成し得、不朽の名作を遺した。林氏の素朴な被写体の数々も、どこかその無名の尊厳を湛えている。

 

いずれこの暗く静かな古民家も、保存の手が回らずに、老朽化による自重崩壊か、あるいは地震や台風などで滅びてしまうかもしれない。瓶原自体が少子高齢化で廃れていくのかもしれない。だがノスタルジックな悲壮感はなかった。これらの作品が持つ独特の存在感の効果かもしれない。作品は派手でも衝撃的でもない。決定的瞬間はない。しかしそれぞれの像は生きていて、時を刻んでいる。

 土間のカマドでは、古い衣装を着た小柄な女性の人形が立っていて、火の調整をするような手つきで音響機器のつまみを調整するポーズをとっていた。斬新なオブジェだなあと思って眺めていたら手先が動いて、ほう、凝ったオブジェですなあと思ったら、アーティスト:Cakky Kato氏なのであった。平静を装ったが、心臓に悪く、地味に変な汗をかいた。直に掴んだりしなくて本当によかった。暗くて… 土間が暗くてさ… 米粒をざーっざーっと流すようなサウンドが響き、心地よかった。

 

この瓶原(みかのはら)の地が、土と田畑と空という「原風景」の記憶を、体の底から揺り動かしてくるものだった。とても久しぶりの感覚だった。残念なことに、この「地元感」は、私の地元ではもう再現されることはない。

林氏の作品と、瓶原の風景に触れることで、私の「きおく」もまた、更新プログラムの履歴の底から、部分的にだが復元されたようだ。

 

( ´ - ` ) 完。