写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生&TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【写真展】寺門豪『PARADISE』@大阪ニコンサロン(H30.9/27~10/10)

【写真展】寺門豪『PARADISE』@大阪ニコンサロン(H30.9/27~10/10) 

 

無人の風景を近年の首都圏から抽出し、「人間が消えた世界」を語る作品。あえて各作品は二枚組にされており、その合間にある距離やズレを受け手が埋めてつつ見ていくこととなる。無人とは何か?というと、その風景に人の影、痕跡を確認する作業に他ならないことに気付かされる。 

 

 

コンセプトシートにも「①人間の不在、②過去の消失、③場所の変質 -そこから出現する世界を、私は「PARADISE(楽園)」と呼んでいます。」とあるとおり、「出現」が要点となる。この作品が試みているのは東京の記録ではなく、ましてや都市の風景写真でもなく、私たちがどこに人間の「存在」を見出すかの考察であった。

さらに言えば、それらを見出す舞台は現代の都市景を踏み台にした未来の社会である。二枚一組の都市景の連続(不連続)から、鑑賞者はその「あいだ」にあるものを想像し、想像は人の居なくなった未来の社会へと向かう。ノスタルジーはなく、少しだけ潜行して流れた時間の中を見ることになるのだろう。

 

同じ「無人」でも中野正貴「TOKYO NOBODY」と決定的に異なるのは、中野作品は本当に「無人」となった状態を映像として見せており、眼前の映像は揺るがない点だ。寺門作品では、我々が見ているのは揺らぎである。周囲に人間はいるかもしれない、人々が平時通り暮らしているシーンの合間であり、人が暮らしている根拠は度々示される。しかし人そのものはいない。そこに私たちは個々に人間の「存在」を投影し、探索や想像を行う。その結果としての「無人」の世界を見ているのだ。言わば、不在とは「存在」の逆説的肯定だと気付かされる。

 

二枚一組になることで「無人」「不在」の意味は複雑化する。ただ人の居ない光景を並べられていたら、あまり考えなくてよかっただろう。二枚にされることで鑑賞者はそこに関連を読み取ろうと脳を働かせ、能動的に作品へと関わることとなる。そこで、「不在」が生じる。読み取ろうとしても、人はいない。

私に関して言えば、あまり「不在」「無人」を感じなかった。というのは日頃からこうした都市の狭間の光景を見慣れているためだと思う。それは近年の都市景の写真が、どちらかというと伊丹豪のような温度の無いレイヤーとして、都市や風景を剥ぐ・重ねるといったものになっていて、見慣れた感があること。そして個人的には私が「街で撮影する時には絶対に人間を入れない」という縛りを掛けているためであること。趣旨や形態は大いに違うが、都市から人間を排した後には必然的に寺門作品が写し出すようなシーンが抽出され収集されることが経験則からもよく分かる。

そしてどのカットも、雑草なり、建築物なり、街路樹、路面、光、青空など、何かが生気を発していて、非常に生き生きしたものに感じられる。これはホンマタカシが90年代に露わにした郊外の虚ろさとは真逆だ。なので非常に作者の解放感のようなものを感じる。人間社会の煩わしい管理、しがらみから距離を置いて、それらの都市を自由に俯瞰し、渡り歩き、解釈することの喜びが宿っているように見える。特に、青空や海の写真が投入されていたことで、そのような印象を抱いた。

 

人口減、超高齢社会、インフラの疲弊などが喫緊の課題となった現代社会において、本作「PARADISE」は本当の意味で降りかかってくる悲劇的事態の結末を予感させる作品、とも読むことはできよう。だが本作にはそうした悲観的なトーンは感じられず、一枚一枚の作品からは都市が持つ生命力と、それらを肯定し、イメージが生み出す力を試したいとする作者の意欲が感じられ、音楽を聴くように会場を回ることができた。

ベタな言い方をすれば、この作者は心が優しい気がする。外界を肯定し、自身の空想に押し込めない。そういった、写されたものの存在の力、言うなれば、現役稼働中の都市が持つバイタリティの中で撮られた光景(作者の存在も含めて)であった。それゆえ、私はあまり不在を感じないということであった。まだまだ都市はいけるのではないか。いや楽観的すぎるか。どうだろうか。