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ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真展 -workshop-】H30.9/23(日)町口覚・柿島貴志の作業場 in gallery 176 / 森山大道写真展「Ango」

【写真展 -workshop-】H30.9/23(日)町口覚・柿島貴志の作業場 in gallery 176 / 森山大道写真展「Ango」

 

写真を「写真集」へと編み上げる造本のエキスパート・町口覚(まちぐち・さとし)と、写真を額装して空間に落とし込む展示のエキスパート・柿島貴志(かきしま・たかし)の2名によるワークショップに参加しました。

本企画は、gallery 176で開催されている森山大道 写真展「Ango」の関連イベントで、写真集『Daido Moriyama: Ango』の出版、ならびにその写真集を受けて、ギャラリーでの展開に当たっての構想、企画、実現に至る工程を紐解くものでした。

 

 

 

構成は、町口氏が写真集造本のキャリアを語り、森山大道作品と昭和文学とを合わせた写真集『Ango』、『Odasaku』について、その制作工程をご開陳。その後、柿島氏が展示の実施について、企画のフローを額装の観点から解説し、フレームとマットの多数のサンプルを用いて、参加者が自由に自分の写真作品に当てつつ、質疑を受け付けた。

 

町口氏のトークでは、「覚の″ カク″は″ 覚醒″ のカクだよ。″ 覚悟″の″ カク″だよ」を皮切りに、写真集制作のキャリアが1997年に佐内正史『生きている』を手掛けたところから始まったこと、どこの出版社にも相手にされず、当時は金もなく非常に苦しい戦いを強いられていたくだりが印象的だった。ゼロ年代前後は佐内ブームだったという印象しかなかったが、『生きている』当時はフィルムを買う金もないので、佐内はペンタックスの6×7をカラ撃ちしては「撮れたあ」と声を漏らしていたという、なかなか芳ばしいエピソードであった。佐内作品をちゃんと読みたい。

 

熊谷聖司の2011年震災の年の取組なども語られた。「写真集ってのはその時に出さなきゃダメだ!ってのもあるんだ」。

 

特筆すべきは町口氏の読み込み力である。前回の野村佐紀子による『Ango』トークショーでも語っておられていたが、「こいつだ」と思い、惚れ込んだら、いかに多忙でも相手の世界観を摂取し、読み込み、血肉化することを欠かさない。前回のトークでは昭和の文豪、坂口安吾について、今回は織田作之助について、その想いが語られた。

オダサクは大阪人だからと、わざわざ関西の古本屋から全集を仕入れて読み込んだ町口氏は、短編「競馬」にオダサク自身の姿、そして妻の存在を見出し、これを「オダサクのポートレイトだ」と看破。森山大道に企画を持ち掛ける。

想いの原点となっていたのは、HYSTERIC GLAMOURが1997年に刊行した大型の写真集である。森山大道が大阪の街をモノクロームで撮ったもので、当時、事務所に送りつけられてきた写真集に大きな衝撃を受けた町口氏は、その圧倒的な黒い「大阪」に対して2015年、織田作之助の「大阪」を衝突、交配させることを企てる。

言葉と写真というどこまで行っても交わらないものを交配させるため、その両方をまず解体・咀嚼しなければならない。写真は、森山大道から大阪の写っている四ツ切作品を借り受け、写真集にあってネガの見つからないものは他の方面から捜索し、写真集への採用の目星をつけたものは、スキャン・コピーしたものを小さなトランプ状にして持ち歩けるようにして、生活の合間に手に取っては、何が写っているか細部を読み込む。小説についても、持ち歩いては読み込み、写真集のページネーションを想定して、マーカーを入れてリズムを確認する。そうしてまず文章のみでコンタクトを作成し、次は写真の入るページを入れてコンタクトを作成する。するとラフ案から「音が鳴ってくる」のだそうだ。こうして、アウトプットの段階に至ると、写真集としての体裁が一気に出来上がってゆく。

 

 

 

柿島氏もまた読み込み力が半端ではない。作品のバックグラウンド、作者の意図を汲み取った上で、その文脈を受け継いだ工夫を展示に反映させる。本展示『Ango』は、黒い木製フレーム、黒いマットと低反射のアクリルから成っていて、ホワイトキューブ内に咲く闇の桜は妖しく、その魔性が高められている。森山大道と言えば日本の都市の表皮、日本の都市の擦過音といった印象が根深いが、その根底には闇のエロス、闇の生命力が流れていて、桜の写真はまさに日本の闇の美の真骨頂であった。その「美」を引き出したのは間違いなく額装と展示だった。

 

なぜ額装に心を砕くのか。「ギャラリーに入って来たおじさんが腕組みをしたまま、足を止めることなくそのまま出ていくのを見て、何とかしたいと思った」「何か引っ掛かり・フックがなければいけないと考えるようになった」とのことで、壁面の形状やライティング、フレームの大きさ、展示タイトルのフォントなど、目につくあらゆるものを総動員させ、鑑賞者の心に掛かるよう提案が重ねられている。

 

 

 

結論として「餅は餅屋」だと言わざるを得なかった。

 

町口氏は紙・本の中の宇宙を、柿島氏は額・展示空間内の宇宙をそれぞれに深く理解していて、写真群、あるいは1枚の写真が抱えている言葉を読み取って、その意図に応じた展開を提案する。

作家自身が、自分のテーマ性やメッセージ性を理解し、それを伝えるための手法を考えることはまずは不可欠であろう。だが、作家ひとりだけで紙面と空間どちらもの展開方法についての最適解を模索するには、時間と労力のコストが多大で、困難である。あまりにも選択肢が多すぎるのである。「白い」紙の質ひとつ、「白い」フレームひとつとっても、「その白って、どの白ですか?」という世界。組み合わせ数は掛け算であって、膨大な試行数の吟味、選出にどこまで費やせるかという話で、最適の一手はその道の餅屋でなければ、正直厳しい。

柿島氏と参加者のやりとりを聞いていると作家の思う「最適」の外側に答えがある場合も多々あることが分かった。作品の力さえあれば、餅を餅屋に任せることで、その力が発揮できるようになるのだ。(RPGの主人公は自分で武器を開発しない。必ず買うか拾うか譲り受けるかしている)

 

しかし究極的には、町口氏が言うように「今日はソウルの部分を知ってほしかった。それ以外のところは技術にすぎないから」、つまり想い、魂の話である。お二人に共通していたのは、写真作品のアウトプット工程において、構成が脈を帯びて動き出す瞬間を音楽に例えていて、何かが「生まれる」ときのリズム感、その流れと動きについても深い言及があったと感じた。

生まれる。そして人間、生きて、そしてやがて死んで行く、儚いアレです。儚い。儚いし、報われないのであるが、儚いながらも各々何か固有の色と熱の魂を持って生きている。文学や芸術はその魂を肯定し、この世に現出せしめる業であるから、可能な限り、良いかたちでこの世に在らしめたいと思うものです。なむ。

 

(  ╹q╹)  後に仲間と飲んで日本の文化行政の現状を憂えたせいか、オダサクを読んだせいか、テンションが変ですが、workshopは面白かったです。わああ。行政は文化に投資をしろ。わああ。

 

自作品にフレームを当てがった様子です。素人目に見ても「黒かシルバーでOK」「いらん遊びはせんでいい」「マット全然いらん」という結論です。分かりやすいなー。フレーム太くない方がいいね。ニールセンで大体やっていけそう。

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ちなみに

スタッフ「Case Publishingの在庫3冊だけ回してもらうことができました!」と、市場では売切の写真集『Daido Moriyama: Odasaku』が急遽販売となり、急遽すぎて会場がざわざわし、たぶん客以上に関係者の皆様の方が欲しかったと思います、これはざわざわしました、

希望者多数によりじゃんけん勝負となったが、何のご縁か勝ったので、買いました。

というのも、中身を見てしまったら、引き込まれたせいです。だめです。織田作之助の文章が凄すぎた。凄絶な、命とエゴの在り様が、突き刺さって身動きが取れなかった。平たい日本語で書いてあるのに、なんという刺さり方をするのか、これが文学なのかと。そういう痺れがあったので、買ってしまった。しかし梱包を解くのが惜しくて、開くのはまだ先になりそうな予感。

 

オダサクの妻が背表紙にいるという凄すぎる仕様です。この作成秘話も聴けました。

 

トークの9割以上、肝心な部分紙面もなくここには書いていないので、まあ次回の機会で実際に参加されるのが吉です。

 

176.photos

 

( ´ - ` ) 完。