写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生&TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【展示】プーシキン美術館展(金曜夜間)-旅するフランス風景画- @国立国際美術館

【展示】プーシキン美術館展(金曜夜間)-旅するフランス風景画- @国立国際美術館

H30.9/21(金)、プーシキンで辿る風景画の歴史・変遷の旅。

 

なんと土日は夜間開館しており(17:00~21:00)、一部不可ながらも写真撮影が解禁されていて、鑑賞の自由度が格段に高まるのでお勧めです。

 

初回の鑑賞時は「風景」の発明とその変遷についてじっくり追いました。

 

mareosiev.hatenablog.com

 

最初は宗教画、聖書の世界、あるいはもっと昔の神話の映像化といった色合いが強かったものが、17C頃から内容が貴族の生活の描写へと移り、貴族 ≒ 神話世界とのオーバーラップ、あるいはやや滑稽な親しみのある描写も見受けられます。「風景」は、画家の理性によって理想的に構成されており、それは完璧なフォトショ世界を見ているような「脳内最強」世界です。完璧にパースを考慮しつつ色んな素材を貼り合わせ、すべてのパーツが綺麗に見えるよう色調とピントを整えられています。グルスキーの作品がなぜあれだけ全てにピントが来ているかが少し分かる気がします。 

クロード=ジョゼフ・ヴェルネ「パンフィーリ邸の庭園、ローマ」(1749) 

不自然なまでの奥行きへの遠近の美しさ。人物、犬、植物の配置。凄すぎる「風景」。

 

時代が進むと更に「純粋な」風景へと移り変わってゆき、計算による構築ではなく眼でみたままを描こうという動機が強まります。市民革命は大きかった。ミレー、コロー、クールベのいわゆる「写実主義」の時代に入り、リアリズムが追求されてゆきます。そこから、眼に飛び込んでくる輝きに着目した、光の絵画、「印象派」に至り、モネ、ルソー、セザンヌなどが並び、会場のクライマックスをクロード・モネ『草上の昼食』が務めています。

クロード・モネ「草上の昼食」(1866)

本作は、本格的な印象派の世界へと至る前の段階にあり、サロン出展をもくろんでいた野心作であったが、諸事情によりお蔵入りしたものだという。先輩(クールベ)がいらんアドバイスをして方向性が狂っておじゃんになった説が有力である。その後、モネが下絵に手を加えて完成作へと仕上げ直したのではないかと考えられている。

迫力のある逸品で、生きている絵画だった。

これは、モネがリアリズムの系譜にあったマネ、クールベの世界を参考にしつつ、新たな試みとして「自然光の下で、戸外での人物像を描く」スタイルを模索したものであり、何度も森の中でスケッチを行ったことが解説されていた。そのスケッチのパーツを組み合わせて一枚の大作へと仕上げたのが本作『草上の昼食』であり、タイトルが示す通り、エドゥアール・マネ『草上の昼食』(サロン出展時は『水浴』)を範にとって作られた。この2作は比較して見なければならない。モネがどこからやってきて、どこへ向かったか、そのバトンの継承を見ることが大事である。

 

その先は、印象派からフォーヴィズムキュビスムシュールレアリスムへと発展してゆくなかで、「風景」は主題でも背景でもなく、画面の構成や「視点」そのものへと、絵画の構成要素をメタなレベルで突き崩しては前進させるための題材となっているかのようであります。最晩年が一番やばいのがセザンヌで、歳をとるにつれて使う魔法の破壊力が増大し続けてゆくといった、危険な賢者の感があり、とても好きです。

ポール・セザンヌ「サント=ヴィクトワール山、レ・ローヴからの眺め」(1905-1906)

いちばんやばいのはセザンヌ。「これ山です」「まじすか」

なぜ人智の先を描けたのか。理屈では説明がつかないのが天才というものです。いいなあ。そうなりたいなあ。

 

会場内の学術的な意義としてのトリはモネが務めましたが、締めのクライマックスはルソーの南国景です。ルソーの一種、幼児性のある幻想景は、麻薬のような良さがあります。一度見たら忘れられない。悪夢と恍惚の間を語っているような魅力があります。 

見る麻薬、ルソー。

 

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今回はだいぶゆらりと観たのでふざけたことしか考えていません。

 

ジャン=バティスト・マルタンナミュール包囲戦、1692年』(17c末~18c初)

これは「都市」の時代性がよく分かったので面白かった。この頃の「都市」は攻城戦を前提とした作りであることがわかります。煙があちこちで上がっているのが不穏で、外壁の守りがいっそう殺伐としています。いつ敵が攻めてくるか分からない雰囲気がとてもよく分かる。「進撃の巨人」はまさにこういう世界ですわな。

 

ジャック・ド・ラジュー『狩猟後の休息』(1742頃)

うわあ。だめ人間かなあと思ったんですが、狩猟後なので仕方がない。男性原理のこの世の中、狩猟もできないようでは貴族失格です。「いやー今日の天候はシビアだったけどロジカルに対応できたと思うよ」「◎◎家もよくやってるとは思うけど、馬の毛並みからしてぶっちゃけウチらほど真剣じゃねえから」「あいつら鹿狙うの下手すぎてうさぎばっか獲ってやがんの」「意識低い家は貴族やめちまえよな」的なオラついた酒談を空想しました。わあい。やだなあ。(※妄想です)

 

同じ絵の上部ですが、女性がブランコをしています。さきの飲んだくれの頭上ですから、最下部に来たときで高さは5mはゆうに超えている。なので上ると10m近い高さに到達するわけで、ものすごく危険である。人間砲弾。桃色の凶器だ。これが貴族文化なのか。「貴族文化とは、ロココ、ゆるふわ、パンチラである」と誰かが言っていました。その通りかもしれません。それ以上かもしれません。つまりはすべて、ブランコなのです。そして、パンチラです。中は、見せない。

 

ニコラ・ランクレ『森のはずれの集い』(1720年代後半)

MetooでWebに晒された告発画像みたいなアレですが、貴族のたわむれを描いた「雅宴画」(フェット・ギャラント)らしいです。とにかくみんなブサイクなのがものすごく印象に残ります。風景がどうのという話ではない。そう、なんだこれは・・・鯉か鮒みたいな顔をしている。恋愛というか貴族というか鮒というか・・・鮒だな。そして水色の男の指先が女性の体にギリ触れていないのも、なんかちょっと。この指ですよ。逆に気持ち悪いというか。いやらしいです。パンチラ文化だからなロココ。掴んでしまったらダメなんでしょう。やだなあ。 せっぷんを迫りかけている瞬間の口元。やだなあ。ひゃああ。

 

2周目になるとそういう余裕が出てくるので良いものです。貴族はやばい。

 

さて、19Cの近代都市と化したパリを捉えた風景画は、都市画とでも呼ぶべき記録性があり、写真の描写を思わせる性質を宿していて面白いのでした。このあたりは前回と同じ感想です。

 

ルイジ・ロワール『パリ環状鉄道の煙(パリ郊外)』(1885)

ものすごく大きくて、172㎝ × 296㎝あり、外のメタルフレームも分厚く、絵画と写真の中間のような映像作品となっています。汽車のあげる蒸気が都市を覆い、路面は濡れていて反射の光を宿し、面の力が強く表わされています。いや、画面内の全体がフラットに整えられた面から構成されています。それらは今回は画家の操作ではなく、都市空間自体が理詰めで作られたものであることを示しています。素朴だけれども、今までの「風景画」よりはるかに人工的な光景で、非常に近代的な世界が到来したことを伝えています。

印象派とリアリズムの写実の間といったところで、特に路面の光沢や、背景の空が太陽で光っているあたりは、画面内が本当に発光しているように見え、ますます写真を思わせます。素晴らしい作品です。画面の半分以上を蒸気の霧が覆っていて、全てを語らずに隠すあたり、何か日本の絵か南宋画にでも影響を受けたのかなと思ったぐらい、異質で斬新でした。

 

アルベール・マルケ「冬のパリ、サン=ミシェル橋の眺め」(1908頃)

蒸気の近代文明都市です。ここまで簡略化して描いても特徴がよくわかります。いきなりマルケの絵だけ画風が抽象化されすぎていて「なんで?」と思いましたが、時代がかなり先で、印象派の皆様が1870~90年代のところ、本作はピカソが初期キュビスムの探求を行っている頃で、フォーヴも出てきた頃だし、そう考えると納得。(こういうことは現地では思い付かなくて、訳が分からないが、後でこうして調べなおすと気付くことが非常に多い)。

 

クロード・モネ「ジヴェルニーの積みわら」(1884-1889)

クロード・モネ「白い睡蓮」(1899)

 

モネはいいですね。( ´ - ` )

光、ゆらぎ、あいまい。

それらから出来ているということは、観る上で、美術史の知識が要らないし、神や信仰との関係も要らない。それに印象派画家たちが日本の浮世絵に影響を受けてこれらの世界観を描き出したこともあり、ルーツとしては近しい。そういったことから、日本人にとって非常に相性のよい絵画です。網膜が正常に働いていればそれで「美しい」と知覚できる。

私も、やはりゴシック、バロックロココ、新古典、ロマン、どれをとっても「重い」ので、消化がしんどいです。きちい。消化不良でうんうんいいます。印象派は、麺類だなあと思います。ツルッツル入りますね。うどんか蕎麦か素麺かといった違いはありますが、咽喉ごし(眼ごし?)は格段によく、胃腸が強靭ではない我々でもツルッツル食えるというものです。ただし印象派にもいろいろあるので油断は禁物です。

 

ルイ・ヴァルタ「アンテオールの海」(1907)

ダークだ。( ´ -`)

こわいなー生きて動いてるよう。これなんですかね。景勝地らしいんですが。モンスターにしか見えませんが。ルノワールやポール・シニャックと親交を深めて、それでこの怪物的な描写はやばい。角度や光の調子で見え方がポップになるのかもしれませんが、今回観る限りではモンスターでした。

 

 

本展示は、パリに行ったことのある人なら、1900年頃の現地と作品との照合地図もあって、振り返りが面白いかと思いますし、やはり写真をやっている人種なら「写真はどこから生まれてきたか」「景色や風景はどこから生まれてきたか」を考えるのにとてもよく、お勧めの展示です。脳を使いましょう。

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福島が近いので飲みます。居酒屋「べんてんさん」が、店頭に日本酒メニューをどかっと開示していたので、信頼できそうなので行きます。酒が、酒が、酒が・

 

ワーッ。

 

「ブリコラージュいいよね」ということでした。

 

 

富田林脱走の樋田ちゃん。まだ捕まっていない。

 

その後はだめでした。

 

日本酒1杯、焼酎2杯しか飲んでいないのに、大沈没。クリティカルヒットがきまり、立っていられない強烈な脳天の暗闇と痺れ、落ちます、音楽はうしなわれ、落ち、地上波が全滅し、夜空と足元と優先座席が腰のあたりでひとつに折りたたまれます、落ちた。眠る、「眠」は目のついた民が立っている姿です、つまり覚醒と眠りは同一だったのです、沈没の歴史。おい。写真史を作ったのは誰なのか、それを管理しているのは誰なのか、ということで少々何か気が昂っていて、怒り始め、ちょっと睾丸が上がる感じがします、深瀬昌久写真集のレビューでも書こうか、いやそれ荒木経惟も調べないとだめ。時間がない。脳天。無線LANが切れる、そうして翌日つまり今日あるいは昨日は、死んでいて、二日酔いはカウンターカルチャー、LAN接続を触ったら切れて、だだだだだだめだ。だめになったんや。そして一日が終わった。プリンターがプリントを途中でな、やめるんや、動かない、体もプリンターもうごかN、ぬる燗、ぬる観音。

( ´ -`)完。