nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真集】ウィリアム・クライン「ABC」(米・2012) & 東松照明「チューインガムとチョコレート」(独・2014)

【写真集】ウィリアム・クライン「ABC」(米・2012) & 東松照明「チューインガムとチョコレート」(独・2014)

 

見れば切られるような写真集だ。どちらも海外で出版された写真集である。テキストは読んでいない。読めないからだ。しかし読まずともイメージの速度が素晴らしく、身体を都市が透過していくような感覚が快感である。快感です。

ウィリアム・クラインは加速された諸国の大都市のイメージを、東松照明は基地(米国)が食い込んだ日本のイメージを鮮烈に伝えている。

 

ちなみに筆者は明日、始発で出発し、飛行機で新潟に向かいたいのだが、もうどうでもいいという心境になっている。ぎゃはは。   ああ、

 

ウィリアム・クライン「ABC」(米・ABRAMS BOOKS、2012)

84歳当時のクライン自らが写真のセレクト、ブックデザインまで手掛けたというもので、表紙からしても気合が伝わってくる。内容は1956年~64年の都市四部作(NY、ローマ、モスクワ、東京)、モード写真、映画『Mister Freedom』のデザインなどから成る、密度の濃い逸品。

受ける印象は、21_21 DESIGN SIGHTで開催された『写真都市展―ウィリアム・クラインと22世紀を生きる写真家たち』(H30.2月)での展示内容に近い。

ロバート・フランクが同時期に移民の眼から「大国・アメリカ」の途方もない陰と虚無感、寂しさを浮き上がらせたことと比べると、こちらの「アメリカ」はとてつもない速度感とハイテンションが漲っている。まるで生活の実感の素肌感がない。早回しの、一種の舞台であるかのように、人々が通過していくエネルギーが画面に満ちている。

 

この痛烈な速度感は何だろうか。クラインの卓越したデザイン力と、現場のプロデュース力による冴えの成果かもしれない。普通にスナップ写真を撮ってもこのようには写らない。都市を歩く人々はもっと疲れていて攻撃的で無関心を装うのが常だと思う。クラインの都市に対するコミュニケーション力、瞬時に場を攪乱させるプロデュース力の賜物ではないだろうかと疑っている。

その根底にあるのは、都市に生きる者は皆、それぞれの「振る舞い」を演じていること、彼はそれを見抜いていて挑発しているためではないか。都市の歩行者らがどこへ向かうのか、彼らが何の役を引き受けているかは、不明だ。しかし都市は各々の出演する舞台として機能している。さすがにローマでの写真は格段に温もりを感じるが、東京とNYの光景は舞台そのものだ。モードの写真と不気味なぐらい符合している。 

経済、犯罪、暴力、夢、恍惚、広告・消費社会。右肩上がりに伸びてゆく時代の大都市は魔法の国だ。人々は一個の人間としての素朴な営みから切り離され、肉体を忘れ、高速の舞台の演者としての身体を獲得して自ずから身を投じてゆく。この先に記号や表象の議論、いわゆるポストモダンの熱狂があるのだと思うと納得する。しかし現在はもっともっと辛気臭くてしんどい時代になってしまっており、これらのイメージは、凄く素敵な夢の輝き――最上級のドラッグが最高潮に効いている瞬間の、瞳の奥の光跡を見ているような神々しさと遠さを覚える。いいなあ。

 

東松照明「CHEWING GUM AND CHOCOLATE」(独・Kehrer、2014)

中身をろくに確認せず即攻買いをしたが、ドイツのケーラー(Kehrer)社が出している東松照明「チューインガムとチョコレート」である。テキストはドイツ語。残念ながら全く読めません。ドイツ語に詳しい方はご一報を。

 

しかし文字を読むことが出来なくても、写真の質とセレクトの丁寧さが良いので問題がない。

これは東松照明の代表的かつ重要な仕事である「基地」シリーズをまとめたもので、1959年から1980年までの作品が全11パートに編集されている。取材地となった地名を順に挙げていくだけで、佐世保、岩国、横須賀、千歳、下田、東京、沖縄・古座、那覇、金武・・・と、この列島に散りばめられた「基地」の根深さを感じざるを得ない。

戦後日本とは、駐留軍によるフェンスによる分断であった。東松は多感な中学時代に終戦を迎え、駐留軍による分断を目の当たりにし、富める向こう側と飢えるこちら側、という「基地」を原体験として生きていく。同じ基地の街の作品でも、石内都の「横須賀」と比較すると面白い。

私のように80年代生まれになると、フェンスによる物理的分断を見ていないので実感が全くない。むしろ「基地」は沖縄固有の話となってしまっている。逆に冷戦終結による壁の崩壊と、更にその後の経済格差、分断の時代としての民の不満、そこから要請される「壁」の再構築、といった問題がリアリティを帯びていて、大きく時代が変わった感がある。そういったことも含めて味わうことができるのが東松作品だ。

 

東松照明の凄さは善悪を訴えない点である。社会改良や国家観などの思想を伴わない。一元論にも二元論にも立たず、ただその時に生じていた状況の本質――権力の働きを、イデオロギー化をかわしながら映像化する。そのためか古さを感じない。イメージは常に新鮮だ。ただし被写体に選ばれるものが「基地」とその周辺に住まう「日本」(人)という構造になっており、結果的には二元論的な申し立てになっているとも言えよう。

それでも、星条旗や戦闘機など暴力、権力の象徴物は、前衛的な攻めの描写によって印象の奥、潜在的記憶のうちにあるもののようにして描き出されている。その表現力の攻めの姿勢が、爽快感と言っては妙だが、明らかに観る者を高揚させる効果がある。緊張感と攻撃的な美しさを伴った文体なのだ。踏み込んで言ってしまうとそれは破滅、破壊を甘受した文体だからかもしれない。ハードコアテクノの如き、ノイジーさと速度で攻めていく映像は、まさに土門拳ヒューマニズムな眼差しと比較すると、破壊を抱き抱えているようなところがある。 

なお本書の構成は非常に論理的で、「日本」や「戦後」を知らない人でも容易に入っていくことが出来る。

ズタボロに疲弊した敗戦国・日本に降り立ったセーラー服の駐留軍が、あたかも自国のように夜の街を歩き回っている。商店街は彼らに合わせて看板や品物を米国化させ、子供や女性らもまたチューニングされた存在として振る舞う。したたかさの営みの中に、支配・武力・権力としての戦闘機、戦闘服のイメージが集中的に投下される。まるで戦争がまだ続いているかのような不穏な光景だ。それは彼ら米兵が次の事態――朝鮮半島の有事、ベトナム戦争、その他に備えなければならないという状況を示している。日本にとっては「戦争」は完了形となり、永い「戦後」が続くのだが、海の向こうではまさに「戦争がはじまる」のである。

次の事態への備えの不穏な透明感と、アメリカナイズされてゆく暮らしのイメージを伴わせながら、本書は終わっていく。その続きの果てに現在の沖縄はある。未だに何も解決しておらず、政府及び我々外地の者は問題を渡したまま手を引いている。部外者が迂闊に口を挟めば大量のリプライに刺されて非常に燃え上がりそうな難しさがあり、近付くこともままならない。とりあえず連日、玉城デニーがディスられている。何の解決もないし、誰も楽になっていない。

 

私が英語もろくすっぽ読めないのに、著名作家の他国版を買い求めるのは、日本国外の眼差しのほうが「日本」をより論理的に、客観的に見ているからだ。そのことが写真集の編集にとてもよく表れていて、面白い。もう一冊、東松照明の海外本を持っているが、そちらもまたいずれ紹介したい。

 

「日本」とは何か。この得体の知れない生体のことを想うとき、東松照明は実によく効く。お勧めである。

 

 

そろそろ寝ましょう。寝う