写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生&TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【展示】生誕110年 田中一村展 @佐川美術館

【展示】生誕110年 田中一村展 @佐川美術館

 昨今とみに人気の高い、「南国の日本画」でお馴染みの田中一村である。滋賀県の佐川美術館で、彼の生涯を振り返る展示が開催されているが、非常に面白く、刺激に満ちた内容であった。

 早世の「神童」がその後、どのような変遷のすえに独特な南国景を描くようになったかを目の当たりにした。

【会期】2018.7/14~9/17

 

近年、田中一村の名前とその艶やかな南国の景色を、TVやWebで目にする機会が多いように思う。しかし画家としてのキャリアや、その独特すぎる世界観のルーツについて知る機会はなかった。本展示では幼少期、絵に目覚めてから晩年までを一気に追うことが出来た。

以下、全4章からなる展示構成に基づいて、一村の絵の魅力やそのキャリアについて、気付いたことなどを記しておく。

 

(1)幼少期~22歳:南画フォーマットの獲得と生の横溢

展示のスタートはなんと7歳(1915年)の作品からで、観客が驚嘆のあまり釘付けになり、入口付近で混雑している。

7歳の作品は『菊図』『紅葉にるりかけす/雀』『柳にかわせみ』の3点で、どれも主題となる植物を巧みに配置し、余白をしっかり確保し、没骨法によって描いている。皆さんは7歳の時の記憶があるだろうか? 一村は我々がものの分別もつかぬ小学校低学年の時分から既に、南画のフォーマットを習得していたのである。ちなみに同年、児童画展(天皇賞もしくは文部大臣賞)の受賞をきっかけとして、父親が雅号「米邨」(べいそん)を与えており、「一村」を名乗るのはしばらく先である。

 

神童、天才と呼ばれる人種の最大の共通点は、ある分野におけるフォーマット、文体の獲得とその出力が一般人に比べて遥かに早いことと、あまりに正確・的確であることだと個人的に解釈している。その度合いが常軌を逸していることから、民は畏れと驚嘆を抱くのである。それが歌舞伎のように、周囲の環境(親の教育など)によって半強制的になされる場合は「天才」の感は薄れる。誰も強要していないのに、幼児が自発的に好んでプロの大人顔負けのフォーマットを習得し、的確に出力するとき、あるいはその文体の約束事をのびやかに破ってみせるとき、「天才だ」とこの上なく驚嘆させられる。我々常人は学校教育や受験対策など外部のシステム、評価基準に晒される中で、しぶしぶ勉強しながら各種のフォーマットを徐々に習得していくが、神童・一村は南画という世界観を驚異的な密度で出力していた。その的確さと力強さに、私たち鑑賞者は興奮させられたのだった。

 

いきなりクライマックスを迎えるような書きぶりになってしまったが、個人的には実際ここが本展示のクライマックスであった。20代以降の一村は、フォーマットが先行し、のっぺりとしたデザインのような絵になっていて、それがずっと展示されていた。それが打破され、恐るべき独創性と深遠さを再び見せるのが、晩年の南国景の絵画なのだが、本展示ではその主力級の南国画が2,3点しかなく、展示全体としては尻すぼみの印象であった。この点は後に触れよう。

 

10代前後の一村が手掛ける南画の絵画世界は、優しさと緊張感が高いレベルで同居した、実に不思議な魅力を持ったもので、ずっと見ていても飽きなかった。他の鑑賞者の歩みも遅く、混雑が続いていたことから、皆も同じ心境だったと思われる。

一村の「天才性」に唸らされるのは、芸の多彩さでもある。描いているものは、身近な草花であり、梅や椿であり、それらに寄ってくる鳥や蝶、バッタといったささやかな存在を、計算された配置と精緻な筆仕事で映像化する。まるで枕草子の世界である。

かたや、その精緻な技術もさることながら、逆に墨の黒を力強くベタッと塗りこめた描き方も際立っている。これが、尋常でない生命力を湛えている。『墨梅長巻』(ぼくばいちょうかん/1926年)では、梅の花の一つ一つは半ば記号化されて「〇」で描かれ、樹の幹や枝は、海中深くで妖しく蠢く水棲生物のように化け物じみた躍動感を持って立ち現れる。

 

一村は17歳で東京美術学校(現在の東京藝術大学)に入学するも、わずか3ヶ月で退学し、結局は独学で絵を学んだ。その後、関東大震災を経て、南画の大家である小室翠雲(こむろ・すいうん)宅に住み込んだことや、漢学に造詣の深い重藤悦造(しげとう・えつぞう)との交流が始まった。

この時期から、中国の作家;趙之謙(ちょうしけん)、呉昌碩(ごしょうせき)の力強い作風、書と画を一体とする世界観に影響を受けており、強く濃い筆の世界、画面中に生命力が横溢する大きな契機となった。 

私はこのような作家の学びの変遷を踏まえずに作品を見たため、一村の若き感性が「南画」のフォーマットを乗り越え、内側から食い破るように自律的発展を遂げたのだと考えていた。植物の枝葉が画面内・フォーマット内の約束を守りつつも、繁茂し、荒々しくねじれ、歪み、自由に伸びているのは、一村の感受性によるものだと。しかしそれは、幼少期に獲得した「南画」の標準的なフォーマットを、新たに獲得した趙之謙や呉昌碩の文体によって更新したのではないだろうか。

一村は更に琳派の技法も継承する。「たらしこみ」の技術(薄い絵具を塗り、乾かないうちに上から濃い色を塗ってにじませる)、大胆に余白を確保した構図、金箔を貼った下地は、画面に緊張感と柔らかさ、時を止めたような悠久の空間をもたらす。

 これらの文体を総動員して作品を産み出す10代から22歳までの田中一村は、神がかったような力を発揮している。絵の知識がなくても関係なく引き込まれる、異様な生命力の場を作り出しているのだ。

 

『富貴図』『竹蘭図』(衝立の表裏/1929年)は、言葉を失う。画面いっぱいに牡丹、竹、蘭、それらを支える岩が、劇的に生命力を主張している。ここでは、描かれたそれぞれのモチーフは絵であることに留まってはいない。だらりと花を広げ、重力に引っ張られる重みのある牡丹、竜巻のように渦を巻く竹は、先行する作家やスタイルを継承したというだけでは説明のつかない力に満ちている。画面の隅に書き込まれる漢詩も、キャプションではなく絵の一部として、呪文のような濃厚さを湛えている。

前言を覆すが、やはり若さゆえなのか。「型」を踏襲しながら、その中から新たな生命を産み出すこの力は一体何なのか。私が南画を見慣れていないことを差し引いても、理解を超えた力があったことは確かだ。画壇の評価に囚われず、己の生き様として対象から生命力を引き出す姿勢に、心を大いに奪われた。やはり若さの力なのだろうか。

 

(2)南画との決別、千葉寺でのスケッチ生活

1931年、23歳の時点で一村は南画と決別する。東京美術学校の同級生たちが新たなスタイルを以って画壇で活躍していたことに影響されたらしい。時勢から、南画が評価されなくなってきたためという記述もあった。満州事変(1931)、日中戦争(1937~1945)といった状況が影響を与えていたのかもしれない。

 

南画は、江戸時代中期あたりから清国より持ち込まれ、与謝蕪村池大雅が大成させ大いに流行したものの、明治に入ると19世紀後半、「近代日本画」の育成に尽力するフェノロサ岡倉天心によって南画排斥運動がなされ、1882年・龍池会でのフェノロサの講演が決定打となり、それ以降は国内での人気は落ち込み、美術系の学校ではクラスが再編されて南画は扱われなくなるといった動きがあった。

しかし明治後期~大正時代から南画を再評価する動きが生まれ、「新南画」と呼ばれる独自のスタイルが模索された。これは西洋美術に対する日本美術の優位性を取り戻す目的や、作家の内面・主観の表現と西欧の表現主義的絵画とを重ね合わせようという狙いがあった。それも、戦争の勃発とともに衰退していく。

一方で、1930年代当時の日本の美術動向においては、19世紀末より西欧から積極的に取り入れてきた各種の「イズム」を堆積、発酵させ、日本化させる時期にあったことが指摘されている。

それまでの日本美術は、1900年代に印象派、1910年代には後期印象派20年代はフォービズム、キュービズム表現主義未来派構成主義ダダイズム、エコール・ド・パリなど、西洋の新思潮を積極的に受容し、常に新派が主導しつつ、それらを日本化するという過程を反復してきた。1930年代の洋画の日本化という現象には、これらの受容体験が重層的に堆積し、発酵して展開されたものである。

更に、日本画についても西洋への意識が積み重ねられ、その近代化の結実が1930年代にあったと言えよう。

日本画についても、1900年代の大観らの朦朧体以降、洋画とパラレルに、西洋の動向を意識しつつ展開してきた。1910年代には日本画の洋画化という傾向が顕著に現れたが、近代日本画の主流となったのは、西洋近代の造形思考を学んで、伝統を再構築する立場である。1920年代に日本画の洋画化はひとつの頂点に達し、その一方で伝統回帰の傾向が強まった。1930年代には、古徑や靫彦らに典型的にみられるような、しばしば近代日本画の完成した様式、すなわち「新古典」といわれる作品群が出現した。

  (出典:「1930年代における「日本絵画の成熟」について」酒井哲三重県立美術館長)

 <★Link> 三重県立美術館 1930年代における「日本絵画の成熟」について

 

乱暴に要約すると、明治以降の日本とは、近代国家の急造、欧米列強と対等となることを目指して邁進してきた。美術においても、西欧で次々に開発される最新の手法を取り入れつつも、日本には何が出来るか? 日本の美術とは?という問いを重ねてきた時代である。明治以降の、個人主義の時代に育った当時の20~30代の若手画家らが、いかに意欲的に新たな表現を求めていたかは、想像に難くない。

この状況下で、南画と決別した田中一村が何をしたかというと、『蕗の薹とめだかの図』といった、素朴で写実的なスケッチを後援者らに見せ、自身の新たな方向性として示したらしい。この絵は展示されておらず、Webや手元の書籍にも掲載がないため、想像でしかないが、同時期に描かれた作品から察すると、実に穏やかでささやかな、写実の絵である。10代~22歳までの、激烈に濃厚な墨と花のカオティックかつ調和のとれた世界は、完全に絶たれている。

南画決別後の作品は、なるほど確かに素晴らしく上手いが、第一線を退いた老年の画家が余生で楽しむような落ち着きがある。動乱の20世紀をこれからサヴァイヴしてゆくべき芸術家としての将来性は、残念ながら感じられない。まだゴリゴリと南画を貫いていた方がよかったのではないかと、個人的には残念である。

 

後援者からは賛同を得られなかった。そこで「支持者とは全部絶縁し、アルバイトによって家族病人を養ふことになりました」(知人あての手紙/1959年)と、更なる決別へ繋がり、懇意にしていた親戚・川村幾三の元を頼って、1928年に家族を引き連れて千葉寺へと移り住む。写実のスケッチ生活の始まりである。

なんとその後、約30年間もの間、一村はこの何気ないスケッチを描き続ける。次に奄美へ移住する1958年までの間に描かれた作品は、自然に囲まれた暮らしの中で触れる風景、生き物、そして千葉寺を素朴に描いたものばかりである。美術界に吹き荒れたアンフォルメルや具体、ハプニング等の動向とは無縁の絵が並んでいた。私はさすがに疲労を感じた。読解のしようがないのである。それはまるで、初めて風景写真を綺麗に撮れた人が、真剣に水平線や日の丸構図など基本をしっかりと守って「風景」を撮り続けるような、「上手いけれど、それ以上でも以下でもない」、例の「何とも言えない感」があった。批判のしようがないが、見るべきところもないという「何とも言えなさ」だ。疲れた。

 

私はあくまでも写真表現をやっているので、どうしても人間の業、狂気、この世の奇怪なる歪みなどを踏まえたもの、すなわち闇や影との応答の結果を見たいと思ってしまう。23歳以降の田中一村にはそれが全くない。昆虫や鶏など自然の風物が生き生きしている様については、極論を言えば「それ伊藤若冲がやったよね」という話になってしまう。

 

これには田中一村の家庭事情と健康状態も影響しているとは思う。東京美術学校に入学した頃に、折悪く父親が病に倒れ、自身が家計を担う必要があったことや、一村自身が結核の再発で吐血している。徴兵こそされなかったが、1943年には船橋市の工場で働き始め、また体調を崩して闘病生活を送っており、その苦しみの中で観音図を多数描いている。心身が弱っている回復期には、攻めの姿勢に打って出られないのは写真家も同様である(奈良原一高東松照明のことが思い起こされる)。一村の中では、求めるべき「表現」は美術界のコンテンポラリーな動向などではなく、日々を生きることや祈りそのものであったのかもしれない。

 

(3)画壇デビュー、「一村、誕生」

39歳、1947年の青龍社展で『白い花』が初入選し、ようやく画壇デビューを果たした。出品を機に画号をそれまでの「米邨」から「一村」に改めた。南画を断ってから追求してきた新たな方針――自然の風物を写実的に描画しながら、精神性を秘めた画面構成を創り出すまでに至った。ようやく日の目を見たのである。

ここから人生勝ちへ転ずるかと思いきや、翌1948年に再び青龍展へ出品した「秋晴」は落選。勝負を懸けた自信作だったらしく、同時に出品し入賞した『波』について、主催者・川端龍子に辞退と決別を申し入れている。

23歳の時に後援者と絶縁した時とまるで同じで、自分の気持ちに真っ直ぐというか、認めてもらいたいという気持ちが強いのに、評価のされ方に対して非常にこだわりがある。損得の感情があるのかないのか、不思議な人である。その後も日展院展へ度々応募しており、わざわざ画壇の審美眼を試したとも思えない。そしてその後は落選を重ねる。

 

これが落選した『秋晴』だが、凄い絵ではあるけれど、戦後日本で美術が新たな地平を切り拓くべき時期に選ばれる絵なのかどうか。日本画について無知な私ですら、思うところがある。日々の暮らしを送ってきた千葉寺を描いたもので、一村にとっては重要なテーマである。しかし戦後の国内の美術は、戦争に加担してきたことへの反省と新たな方向性の模索に血道を上げていたのではなかっただろうか。 

あとは落選が続く。無理もないと思った。会場に展示されていた、1956年までの約10年間の作品はほとんど、写真で切り取ってきたような、平坦な風景画だった。悪い意味での「デザイン」で、草木や建物を平面状に配置しただけのような絵だった。上手いが、上手いだけで、感想を抱くことができなかった。それに、画壇との接点がなさすぎる点も政治的な面から不利であったろうと思わされた。有力者との何の繋がりもなく、身近な自然を描く写実の40代の画家が認められるような世界とは思えない。

 

日展に続けて落選した後の1930年から一村は南へ向かって旅に出る。九州・宮崎の日南や阿蘇山、四国四県の端々を巡り、紀伊の新宮、熊野へ至るルートである。一村はついに「南国」という自身の究極のテーマに出会う。よかったですね。

人生に行き詰ったら、徹底的に勉強するとか死ぬほど旅をするとか、逆に町田康のように「徹底的に何もしない」など、人には真似のできない「偏り」へ走るほうが良いのかもしれない。とりあえず人生の光明が見いだされたようで良かった。

 

(4)奄美大島での新境地

1958年、50歳で一村は奄美大島に向かう。同年に院展で落選し、その直後には家を売却したうえ、数百冊にのぼるスケッチを出発直前に焼却処分したという。退路を断ち、画壇への希望を断ち、捨て身で向かったことが分かるエピソードだ。どれだけ応募するのかと思う。絵から始まった人生だから、絵しかない人生なのだろう、その苦悩は私のように「何物でもない者」には到底理解できない。しかしここで捨て身に出たことが結果的には彼を唯一無二の表現者へと押し上げた。

 

残念なのは、展示会場では代表作と呼べる大型の作品が、『初夏の海に赤翡翠』(1960'後半)と、複製写真パネルでの展示『アダンの海辺』(1969年)、『不喰芋と蘇鉄』(1974年頃)、以上3点ほどで、後は小振りな作品で構成されていた点だ。

神童と謳われていた頃の展示・第1章から後は、第2章・3章と、勢いに欠く(むしろしんどい)展開だったため、第4章の奄美での作品群を以ってクライマックスとされたいところだった。しかし構成上、尻すぼみの感があり、「一村は晩年はごく一部の作品を除いては小振りのデッサンで幕を閉じた」と、誤って解釈してしまった。

実際にはもっと多数の主力級の作品が存在することが、物販の書籍を見ている中で気付いた。力のある南国作品が立て続けに紹介されている紙面を見ていると、会場で受けた印象とは逆の認識に至った。 それだけに異質で、他に例のない世界観があった。

 

例がない。ゆえにタームもない。彼の南国の絵について、それを当てはめるジャンル、専用の用語がないことが残念である。冒頭で「南国の日本画」とわざわざ記載したのは、そのもどかしさゆえである。

唯一無二の絵である。一村がこれまで携わってきた南画や写実の要素が取り入られているが、どのジャンルとも別物の世界がある。個々の植物などの描画は写実的な形態から生み出され、新興写真のように形状が浮かび上がっている。色の塗りは優しく、闇を秘めている。それらパーツの重ね方は計算が行き届いた配置によって、バランスを統御されながら、シュールレアリスムのようにどこか怪異も秘めている。そうして生まれた1枚の絵は、静謐な幻想を語っている。

暗部の彩色に、最大の魅力がある。けだるい熱帯の暑さ、強い陽射しの陰影、溢れる生命力の落とす陰がよく表されている。10代の頃に見せてくれていた「生命力」が、妖しさを伴って洗練されていた。

もし一村が南画を踏まえずに、写実や洋画だけでキャリアを積んでいたら、この上質で洗練された闇の息吹は宿さなかっただろうと思う。下手をすればラッセンに近い南国憧憬になっていたかもしれない。

現実にはこんな光景は存在しない。奄美という土地がいかに神秘的なポテンシャルを秘めていたとしても、あくまで鹿児島県の一部である。ここまで特異な島ではない。私の父方の実家が種子島なので、何となく分かるが、この南国画はあくまで一村のファンタジーである。それを単なる幻想に留めないのは、一村の卓越したフォーマットの表現力と、南方の植物の奇異な形状、艶やかな色彩への愛、そして画面内に破綻なく収まるよう調和をとれる編集力の賜物であろう。 写真の複製でありながら『アダンの海辺』と『不喰芋と蘇鉄』は強烈に深い世界観を有していた。ずっと見ていたい絵だった。

 

一村は画壇から評価されず、南国で人知れず画家人生を終えてしまったが、それによって今、大きな評価を得ることとなった。日本国内の絵画史から途絶されたことで、この世の誰も描いたことのないフォーマットで「南国」を表わすことになった。それゆえ、世界の絵画史、すなわちゴーギャンやルソーの描いた「南国」へと自由に接続して語ることが出来るようになったと言えよう。

逆に言えば、画壇から見放された結果としての、この「南国の日本画」が無ければ、本当に「かつて神童だった南画の画家」で終わっていたのだ。膨大な千葉寺周辺のスケッチだけの画家として。恐ろしい話だ。そういう表現者たちの何万、何十万という屍の山が見える思いがする。

何とも皮肉な話である。院展の大観賞受賞者のことは全く知らなくても、現代の我々は、田中一村の描いた南国の風景に強く惹かれている。

 

面白い展示でした。生で見ておいてよかった。

 

なお、南国風景を描いた作品群については、語りたいという想いがありながら、会場で主力級作品があまりに少なかったことに加え、やはり私自身が日本の絵画を知らなさすぎるため、その魅力がどこから来るかを言語化することが、今は困難である。いさぎよくここで筆をおきます。あと何度か企画展を観て、一村への理解が深まれば、絵の中身について言及できることが増えると思う。合掌。

 

( ´ - ` ) この日は観光バスが乗り付け、駐車場は満車であった。

「佐川美術館は建築の面でもすごいので晴れた日にぜひ見てほしい」と友人談。

はい。

 

JR堅田駅付近の「ひより」でパスタとレアチーズケーキを食して〆です。

 

( ´ - ` ) 完。

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なお、執筆に当たっては本展示のキャプションのみならず、『もっと知りたい 田中一村 生涯と作品』(大矢鞆音、東京美術、2010)が展示趣旨と綺麗にリンクしており、双方を参照しました。この本は特に奄美に移って以降の作品が非常に多く掲載されているのでたいへんお勧めです。