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ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真展】時本玄・個展:「いのち育む農業高校 ~喜びに汗をかく青春~」@兵庫県民アートギャラリー(兵庫県民会館2F)

【写真展】時本玄・個展:「いのち育む農業高校」~喜びに汗をかく青春~ @兵庫県民アートギャラリー(兵庫県民会館2F)

兵庫県加西市で三代続く写真館を営むカメラマン・時本玄 氏が、8/23(木)より個展を開催しています。

【会期】H30.8/23(木)~8/26(日) 10:00~19:00(最終日16時まで)

時本氏は私の通う「写真表現大学」の夜間コースに在籍しておられたので、会場設営のお手伝いに駆け付けた次第です。  

本作は、時本氏が仕事として学校アルバムの制作に携わってきた兵庫県立播磨農業高等学校を舞台としたものです。

この展示を通じて時本氏は、農業高校の生徒さんたちの青春と、その背景に現実として横たわる日本の農業の先行きの厳しさ、後継者問題について言及しています。

 

 

 

 

(1)農業高校とは

私にとって非常に馴染みが薄く、全くピンと来ない分野がまさに農業、畜産である。このことは後述するが、都市生活者におけるシステムにおいても認識の上でも最大のウィークポイントと言えよう。

まず、基本的な前提として「農業高校」とその生徒について押さえておきたい。

 

①国内における農業高校の位置付け

文科省によれば、国内における農業学科系の高校は303校、生徒数81,303人を数える(うち単独学科学校数は126校)。高等学校生・全体の比率では2.5%である。工業が7.6%、商業6.0%、普通科73.0%であるから、かなりの少数規模ということが分かる。

更にその約8万人のうち、26,856人の進学・就職先データについては、就職者53%、専修学校公共職業能力開発施設が約30%、大学進学15%となっている。生徒数の母数に大きな差異があるのは、学校によってデータを提出していないためかもしれない。

(いずれもデータは文部科学省・H29年時点)

 

農林水産省のHPでは農業高校の特集として、女子学生の比率が高まっていること(平成28年度、49%)、農林漁業の「6次産業化」(1次産業から2次、3次産業へのクロスオーバー)への取組み、農業高校における近年の特徴的な学科の紹介などを挙げている。地域支援やフードビジネスへの展開、グローバル化へ対応したカリキュラムの事例が紹介され、一般的に想像される「農家」よりも活動の幅が広く、充実した学生生活を送れることがPRされている。

 

 

②作品の舞台について

では、舞台となった兵庫県立播磨農業高等学校の状況も見てみよう。

平成30年4月現在、全校生徒数340人(男139、女201)、各学年110名強という構成で、女子の方が多い。

 

県立播磨農業高校の柱となる学科は、以下の3科から構成されている。 

・農業経営科 _作物・農業機械コース、野菜コース

・園芸科 _果樹コース、草花デザインコース

・畜産科 _酪農コース、肉畜コース

  

平成28年度卒業生の進路情報を見ると、就職先は多岐にわたり、必ずしも農業系への道を歩んでいるわけではないことが分かる。農業系の進路をとったのは、進学者50名中20名、就職者57名中12名、トータルで107名中32名(約30%)となっている。ここには、「実家の農業を継ぐ」という選択肢は見当たらない(「アルバイト・家事手伝い」の4名中に含まれているのかは不明)

更に「農業系」の就職者の内訳は「農業」と「畜産」に分かれている。「農業」の進路は、なんと1,2名しか見当たらない。畜産においても、「牧場スタッフ」が5名を数えるのみだ。あとは製造業やサービス・接客業、介護業界など、農業以外の業種が高い比率となっている。進学先においても、農業とは関係のない美容系やアニメ、調理の専門学校が目を引く。

 

就職者のうち実に8割近くの生徒が農業系以外に進んでいるのは、農業に興味を失ってしまったからだろうか。学校のカリキュラム自体が、現代の若者のニーズに応えるために、多様な就職先への対応を行っていることもあるだろうが、そうとばかりは言い難い面がある。

 

③就農について

このことは、就職先として農業・畜産が不人気で選ばれないのか、あるいは、就職先がそもそも無いのかという問いにつながる。

前者であれば若い世代における就労、自己実現のビジョンと、農業で食べていくこととのミスマッチが問題と言える。だが後者であれば、どれだけ意欲を持って学ぼうとも、そもそも自己実現の道が初めから無いことになる。

この点について実情を詳しく聴き取ったわけではないが、本展の案内文で「日本の農業の一番の問題は後継者問題」と言及されていることから、①若い人に労働力として来てほしいとする農家のニーズはあるのに、②学生の希望する就職先の候補には上がらず、③学生が望むような業態では募集がほとんどない、という状況が予想される。農業という産業に、何か大きなひずみが生じていることは確かだろう。

 

これが、播磨農業高校に固有の状況ではなく、全国的な「課題」であることは、Webで少し調べれば後継者や就農方法、就農先に関する情報サイト、質疑がすぐにヒットすることからも明らかである。

 

<関連★Link>

 ◆ 新規就農相談センター

 ◆ 農業でスタートアップ。47都道府県の就農支援まとめ | 自治体クリップ

 ◆ 各地域の就農支援窓口:農林水産省

 

これらの情報を流し読みをしているだけでも、後継者を求める声、また逆に、事業を継ごうとする側が二の足を踏んでいることなど、様々な事情が伺える。若い農業の担い手を求める需要そのものはありそうだ。となると、個人経営で農業を営んでいくことへの将来性、経済性について、学生らの間で不安やニーズへのミスマッチがあるのではないだろうか。

 Canonグローバル戦略研究所・2016年10月レポート『農業を魅力ある就業先とするために』(山下 一仁 研究主幹)では、 全国で消滅の一途を辿る「農業」の中で唯一、「存続可能」と評価されている秋田県大潟村の事例を取り上げつつ、その点を分析している。結論としては、日本列島の国土そのもののポテンシャルは他国に引けを取らないのだが、農業政策や農協などの仕組みが、農業への新規参入のハードルを上げていることと、株式会社などの資本参加による高収益構造の構築を拒んでいること、それによって個々の農家が十分な収益を上げて発展していくことを困難にしていると述べている。

 

ただし、こうした構造的なひずみ、困難さは別として、時本氏の写真では、まさに「青春」と「いのち」が瑞々しく活写されている。農業高校をあえて選んだ生徒たちは、家畜や農作物、それらを育む土壌や水といった「命」に対して、直接に携わり、深い関りを結んでいる。このことは、特筆すべきことだと思う。

 

私のような一般普通科の高校に進学した者が、日々一体何を学んできたかと言えば、取るに足らない偏差値と入試の話題や、将来の夢のなさについての堂々巡りな気怠さを味わってきた、それぐらいである。生きる目標そのものを失っていたと言っても過言ではない。文化祭の準備をしようが、クラス上位の得点を収めようが、ソマリア難民に関するレポートをまとめようが、「命」を実感した瞬間はついぞなかった。筆者がひねくれたネクラであることを差し引いても、高校時代、「命」は皆無であった。唯一、皆の眼が輝いた瞬間は、98年にTV放映でエヴァンゲリオンに火が付き、ものの見事に全員感染した時ぐらいであった。

それに比べれば、時本氏がとらえた農学生らは、まさに「生きている」。このことは、青春らしい青春をついぞ享受し得なかった私のような人間には、眩しく、輝かしく感じられる。それと同時に、私やその周りの多くの者が「命」、すなわち「食」の源流となる現場に全く関与することなく暮らしてきたことに気付かされる。

 

 

(2)食を作ってくれている「誰か」

本展の最大の見どころは、有り体に言えば、「飯は誰かが作ってくれる」という消費社会の構造、その「誰か」をしっかりと明らかにしてくれていることだ。それも、現在プロの農家として活動している「誰か」(=私たちとは切り離された世界の職能者)ではなく、「私たち」と「誰か」との過渡期に立つ農業高校生であるという点が、新鮮さと生々しさをもたらす。

 

私たち現代人は誰もが、自分の暮らしを自由にデザインできる社会に生きており、3次産業の複雑化によって日々新しいビジネス機会を構築し競争を行っている。裏を返せば、細分化された業界・業種にてキャリアを構築しなければならない私たちが、揃って「飯の作り手」となることは、現段階では極めて困難である。(将来、技術革新によって家庭菜園がゲーム的なコンテンツとなり、都市生活者がモバイル通信ツールから遠隔操作によってミニマルな農作を行える可能性はあるかもしれない)

 

つまり、仕組みはよく分からないけれども、他の「誰か」が食材を作ってくれて、「誰か」が運び、「誰か」が調理してくれていて、私たちはサービスの享受者として対価を払う側に腰を据え、運ばれてきた皿を「食べる」。それが、日常・社会の基本的な形となっている。

これまでさんざん指摘されてきたことではあるが、インフラの上に乗っかって暮らしている者は、そのインフラが何で出来ているかを知らないし、ブラックボックスの中身を知る機会も持たない(関心もない)。

近年は情報化によって誰もが発信者となることができ、その「誰か」の存在はかなり可視化されるものとなってきた。Twitterによって多方面からの主観の「声」を眼にする機会が爆発的に増えた。クラウドファンディングにより新規ビジネスの立ち上げや資金調達が現場の声とともに伝わるようになった。あるいは漫画のジャンルの多岐性から、農・畜産の現場を描かれる機会が増えた。

それでもなお、例えば私が、農業・畜産あるいは食作りについて、「もやしもん」「リトル・フォレスト」以上の知識があるかと言えば、残念ながら皆無である。「ガイアの夜明け」「情熱大陸」「セブンルール」などで取り上げられるような先進的な取り組み事例、個人事業主の成功事例、逆に何年間もかけて遠洋に出て命の危機に晒されながら操業を行うマグロ漁船や、ベーリング海カニ漁船といったエクストリーム職場といった話題性のあるものしか、基本的に見えていない。あとは、台風や大雨、冷夏で被害を被った農家のニュース映像だ。(=これこそ「消費」の形態だ)

 

消費という構造をとらずに、私たちは食の作り手である「誰か」を認識し、意識のどこかで繋がることが出来るだろうか。日本の食料自給率、食文化の存続、食の安全と品質を「問題」「課題」として捉えることは、案外たやすい。しかしそこにいる「誰か」のことは、眼に見えないし、見えなくても食っていける。これは都市生活者における根深いジレンマであろう。

 

(3)写真が可視化する「誰か」

「消費」を経由せずに作り手の「誰か」の存在を認め、社会に伝える手段として、写真というメディアはドキュメンタリー性の高さと伝達力の高さゆえに、昔から有効に用いられてきた。

ここで、「生産」のために実働する「誰か」が、各時代でどのように変遷してきたか、写真史的にざっくりと振り返ってみたい。

 

①近代・20世紀初頭

ウォーカー・エヴァンズ、ドロシア・ラングが、1930年代初頭、世界恐慌下の大不況で苦しむ貧しい小作農の暮らしを如実に伝えている。

ここでの「誰か」は実の人間、労働者であり、資本を持つ者に使役される、弱い立場の存在である。最低限の持ち物しかなく、およそ娯楽からも程遠い暮らしがある。しかし、人としての尊厳は失われておらず、光の当て方によってはむしろ崇高な存在へと立ち上がること――ヒューマニズムへの信頼が、写真表現上のテーゼとなっている。

 

②現代・20世紀後半

科学技術の進展が「生産」の効率化を目的として「命」そのものを再デザインする時代。言わば、遺伝子改良により食材そのものをミニ工場へと改造し、産み・育てることを効率化し、大量生産するための工夫がなされた。

代表作として真っ先に思い付くのが、大阪国際メディア図書館・館長 / 畑祥雄「HANAKO」(1990)である。登場するのは、食用タマゴを効率よく生むためだけに改良された鶏である。質の良い卵を産めなくなれば、後の寿命はコストでしかなくなるため、寿命そのものが通常の鶏よりはるかに短く設計されており、この鶏はたったの1年で突然死を迎えるという。

現代において、食を作り出す「誰か」は、ミニマルな工場と化した食材そのものである。人の手を離れたところで食がオートマチックに生み出されてゆくことをこの作品は明確に鋭く示している。

 

ゼロ年代以降、現在

人の手を離れた食の生産は、更に暴力的なまでの進展を見せている。

農業の形態は多国籍企業によるグローバル経済の波となって地球規模で押し寄せ、国境を超えて各地の国土そのものを工場と化している。上述のような、廉価な労働者、遺伝子改良された生命など、あらゆる技術とノウハウを駆使し、更に法的手続き、ロビー活動を根拠として、合法的な「支配」を進めている。

ここでの食を作る「誰か」は、多国籍企業そのものである。旧・モンサント(※2018年6月、バイエルが買収)やそれに連なる穀物メジャー、Dole、デルモンテネスレ穀物メジャーなどが挙げられよう。世界中に安定的に大量の食をもたらすと同時に、合法的?な搾取による深刻な人権問題、環境問題、遺伝子汚染を生じさせていること、それらを隠蔽し企業イメージを高めるための広報活動をも含めて、しばしば話題となり注目されている。

これらの存在は、食に関する新しい工場の風景を現出させている。事例としてバイオテクノロジーの環境を社会的風景として見つめる写真家、ヘンリク・シュポーラー(Henrik Spohler・独)『The Third Day』(2013) を取り上げたい。写し出されるのは、遺伝子組み換え作物の形質をテストする施設である。サーバールームのように透明感と清潔感のある環境からは、食の作り手としての具体的な「誰か」を、もはや想定することができない。透明な環境、装置そのものが、半ば自動的に食を産み出している。作者はこれを神の御業に抵触しつつあるものとして、聖書を引用したタイトルを付している。しかしそこには、確実に経済性という原理が働き、生命・食をビジネスとして、具体的な誰かにとっての富を確かに産出している。


④現在2

他方で、身近なレベルでは農業の現場から発信を行うカメラマンが増えている。

ひとつは、農業に特化してPRを担うカメラマン、農家の魅力や生き様を伝える写真家の存在。もう一つは、農業とカメラマンを兼業する事例だ。いずれも、見落とされてしまいがちな「農家」の素朴な生き方、ひたむきな姿と、苦労の末に生み出される作物の魅力を伝えたいという情熱が原動力となっている。

デジタル撮影機材の進化とWeb媒体の発達から、誰もが発信者となり、より現場に近いところから情報と声を届けられるようになったことが大きい。先の企業的支配とは逆に、自らのつくり育てた農作物をできるだけ直接、消費者に届け、顔の見える関係を築きたいという動きが見られる。Webを活用した販路の開発が可能となった現代ならではの感性である。

 

しかし撮影機材を駆使し、広報ツールを効果的に用いるためには、各分野の基本的な知識・技術の習得が欠かせないことも事実である。誰もが発信者となれる時代ではあるが、実はそれを的確に行える人材は限られている。本作のように、都市生活者と食の現場の作り手とのはざま、過渡期を生きる学生らの姿が可視化される機会は少ない。そして、彼ら・彼女らにとっての「日常」は、写真界において好んで取り扱われる「若い世代の日常」という範疇には含まれているとは言い難い。そこには都市生活者の日常しかない。だから、時本氏の展示は、新鮮であった。

 

都市生活を送る私のような人間は、農学生のことも農業のことも、概ね知らない。農業のあり方が、従来より自由になり、可能性に満ちているように見えるし、逆に従来よりもはるかに脅威に満ちていて、貿易交渉、法令改正の都合によって一瞬でひっくり返りそうな気配もある。 

先行きの見えない中で、目減りする働き手の補充のため、取り急ぎ次にあてがわれる作り手の「誰か」は、外国人だ。平成29年11月から「外国人の技能実習の適正な実施及び技能実習生の保護に関する法律」が施行され、農業分野における外国人技能実習生の受け入れマニュアルがWeb上でも配付されている。そうした打ち手が有効なのも、「日本」がこれまで稼いできたポテンシャルの貯金残高が残っている間だけであり、アジアにおける魅力が相対的に沈下すれば、誰も来なくなる。本当に困った時には、ここには誰もいないだろう。

 

誰がこの国土に命を吹き込む担い手となるのか。 巨大資本にお任せするのか。それとも、時本氏が写し出したような、若き学生らに託すのか。彼ら・彼女らの行き場/生き場は、本当に、無いのだろうか。

何かが空洞化している私たち都市生活者に、本展示は、基本的なことを思い出させる。彼ら・彼女らの笑顔、青春を、裏切ってはいけないということだ。この高校生活を「よい思い出」で終わらせてしまってはならないことは、確かだ。

  

 

 

  

命の現場に携わる皆様に、敬意を表して、締め括りとしたい。 

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おまけ ~会場設営のようす~

おまけです。

壁面が釘打ち禁止のため、めちゃくちゃ苦労しました。

 

搬入は平日・木曜の朝9時からでしたが、写真表現大学の仲間が夏休を投じて参戦しました。心強い。

開場が13時からで、設営完了が12時半くらいでした。

まず、想定されていた図面より実際の壁面が狭く、その場でレイアウト調整・変更が行われたりしました。現場こえぇ。

 

釘ではなくピンを打ちましたが、高さの設定が難解でした。

額の裏の紐でピンを掛けるのですが、紐の位置(作品ごとに微妙に高さが違う)と、ピンの誤差(針が斜め下を向いていて、刺し込み位置と引っ掛ける高さの誤差が3㎝ぐらい生じる)を計算しながら高さを揃えていきます。計算むずい。

 

しかも壁面によって異様に硬く、裏に何が入ってるのか分かりませんが、全く針が通らなかったりして、ピンを何本もおしゃかにしました。ぎゃああ。

 

みなさんおつかれさまでした。これが自分の展示だったら泡ふいて倒れていたと思います。仲間の力は偉大です。時本さんお疲れ様でした。

 

( ´ - ` ) 完。