nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真展】広瀬耕平『欲視録』(TOTEM POLE PHOTO GALLERY×gallery 176交流展)

【写真展】広瀬耕平『欲視録』(TOTEM POLE PHOTO GALLERY × gallery 176 交流展)

( ´ - ` ) H30.7/20(土)

都市(東京、台湾)の中でスナップを撮り続ける作家、広瀬耕平氏の個展およびトークショーに参加する。

語られたのは、意外にも中平卓馬の思想であり、無意識で撮ること、仏教観についての想いと、自身の磨き続けてきた撮影・現像技術との関わりについての話であった。感情や意図を排したところに何が見えてくるのか、考えてみたい。

 

 

あつい。 

 

あつい。

 

 

( ゚q ゚ ) あついです。あつい。何も考えられない。作家の意図とは反するところで自我を失い気味の民です。あつい。これはいかん。自己とは何か。汗である。自意識とは汗と衣服のあいだに生じる苛立ちのことだ。あついよう。あついですが、gallery 176は駅から近いので助かります。

 

毎度おなじみgallery 176です。東西の「ギャラリー間で展示及びトークイベントの交流をやるという企画でした。

イベント第1部は、東京の自主運営ギャラリー:TOTEM POLE PHOTO GALLERY所属の写真家・広瀬耕平氏が、自身の個展『欲視録』について、gallery 176メンバー・布垣氏からインタビューを受ける形式。第二部は、トーテムポールとgallery 176それぞれのメンバー3名ずつが登壇しての東西意見交換。

東京と大阪で連繋するのはよいですね。

 

ビールもらいました。わあい。あざます。

真っ赤になる。ぬぐぐ。回る。

 

以下、トークを踏まえて、作品について私見です。

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(1)手法:腐食

広瀬耕平氏の作品は、都市のスナップ写真に、海の波打ち際や岩場に生じる泡、澱みのような映像のレイヤーが重なり、都市の景観が水面の中に漂っているようである。

これは化学薬品;ニトロセルロースや希硫酸を配合したもので、ネガを直接腐食させている効果であるとのこと。スナップ写真は1999年から撮り続けているシリーズであるが、腐食効果を研究し始めたのは5年前、技術として落とし込めるようになったのは、この3年程のことらしい。

 

冒頭で書いた通り、広瀬氏は写真家・中平卓馬の思想に強い関心を寄せている。「確からしさの世界を捨てる」ことを意識して、半ば無意識下にて作品を撮り溜め、腐食させ、本作『欲視録』を構築した。腐食の工程まで完了して、初めて作品となるのだという。この作業フローは東京の都市景に限られ、同時進行で取り組んでいる台湾の都市景については、ストレート仕上げが「作品」となっており、定義が異なる。ここに、広瀬氏と「東京」、日常としての都市景との関係性が見える。

ただ、今年の冬に20年弱の活動の総括として『欲視録』は写真集にまとめられた(禅フォトギャラリー)ためか、もう作品シリーズとしては終わりの段階に来ているとのコメントであった。「毎日シャッター切ってて飽きないですか?」「飽きますよ」、つまり熱狂や興奮で撮られた写真ではないらしい。

 

印画紙ではなく、ネガに直接手を加えるという技法自体は、違和感のあるものではない。手法の研究を重ね、コントロールが可能なまでの腕前になっていることに加え、手順は逆だが、荒木経惟が腐食作品(経年劣化で腐食したネガを発見し、面白がって写真に起こした)を精力的に発表していたことが思い出される。

荒木の場合は、劣化という現象を「死」や「生」の混ざり合ったものとして映像化し、エロスの力を強く引き出していた。広瀬氏の世界観では逆に、腐食による効果は、それ自体で何かを語るものではない。むしろ写真の持つ言葉を鎮め、写真が都市スナップとして語り出す/作品を語られることを控えさせる効果がある。それは恐らく意図されたもので、都市に波間の揺らぎが重なり合うような映像は「自分の思う街の感覚、イメージ」ではあるが、「街がこう見えているわけではない」と語られたとおりだ。では都市と写真家との関りにおいて、写真のフォーマットで語らせないことによって、逆説的に可視化しようとしているものは何だろうか。

 

(2)思想:中平卓馬

ここで参照することになるのが、トークで度々引用された中平卓馬であるが、この人物は写真と言葉の果て(荒木経惟篠山紀信とは逆の極地)に行き着いてしまった上に、死なずに生還してきた人物なので、迂闊に語るとこちらが燃やされてしまう。しかし最早避けては通れないので、私自身の確認作業も含め、浅薄を承知で中平について言及しながら進めていくこととする。

 

注目したいのは、広瀬氏が語る「無意識」や「認識論」の問題についてである。広瀬氏が例に出したのは、我々があるモノ(例えば目の前の缶ビール)をそれ(缶ビール)と認識するのは、縦・横・奥行の3次元的な空間認知によって統御された結果である、という話であった。その絶妙な距離感を構成するレイヤーを部分的に改変し、前後に「ぶらす」ことで、我々がこの世界、「実体」と信じている「確からしさ」を揺るがすことができる、というものである。その発想は会場の展示方式にも生かされ、作品によってフレーム、保護ガラスの有無を混成させたり、作品の背後・壁面に大きく引き伸ばされた作品で覆うなど、「ぶれ」への工夫があった。

 

これは中平卓馬と真逆である。

中平が60年代に放ったラディカルな挑発は、一見、広瀬氏の試みと同様に「確からしさ」を揺るがすための手段のように思えるが、選択肢の一つであることを超えて、まさに「思想」として、段違いに危険な問い掛けとして作用した。中平のそれはまさに剃刀であり、鋭い言葉と理論は映像を先行し、自身の作品が語る言葉を刈り取ってしまったのみならず、時代の状況の転回とも相まって、その刃先はついには中平自身の認識、生存をも断罪にかけた。結果、『なぜ、植物図鑑か』の後には、喫茶店で自身の目の前にあるコップと自分自身との距離感が測れないまでに至り、睡眠薬の服用も相まって1ヶ月の入院も経験している。広瀬氏とは立ち位置が逆なのである。

 

作品の形態においても、中平卓馬の写真は本当に「わけがわからない」点が、広瀬氏との違いである。

PROVOKEはまだ、鮮烈なアジテーション、左派思想の切っ先を、時代に、「写真」へと振り下ろす「行為」として理解できよう。しかし記憶喪失以降、彼が病床から立ち上がり、世界との関係を回復してゆく過程にて撮られた写真は、その引力ゆえに見入ってしまうものの、一般的な写真の読み方が全く通用しない。何を思い、何を狙って、どこでシャッターを切ったのか、なぜそこを取捨選択したのか、普段何が見えているのか、誰と対話していたのか。そういった「写真」というメディアが成立するための要件が全て手放されている。いや、手放された状態から、ひとつずつ、ヒトとして立ち戻る過程で、素手で試すように掴み、試すように全力で握ろうとしている、そんな眼差しをしている。

それは中平が「写真」に対して深く絶望し、「写真」を諦めながらも、どこまでも写真家であらざるを得なかったという経緯がある。写真を撮ること、その映像を発表すること、映像が解釈されることの全て、つまり「写真」というメディアがこの社会で機能すること自体が、結果的には「権力」の存在(及び権力を肯定・受諾する「大衆」の存在)抜きにはありえないことを知ったためと言えよう。無限に拡張するマスメディアに乗って、写真は商用あるいは真実の記録として大衆へと拡散されるが、映像は全て真実の記録だと信じる「権力」、自身を「真実」として振る舞う「メディア」、そして記録・真実を信仰する「大衆」という三角関係の強大さを、中平は知ったのである。

 

1971年11・10沖縄ゼネストに関する読売新聞の写真の一件によって、中平はもはや自身がそれまでと同じ写真家として立ち得る場が無いことを知ったはずだ。中平が選んだのは、自作品のネガに灯油をかけて焼却し、写真に対しては「植物図鑑」を標榜することだった。しかし、『なぜ、植物図鑑か』の刊行(1973)から4年後の夏、意識と記憶を失ってなお、ご存知の通り、中平は1989年、写真集『ADIEU A X』にて「素朴な写真家」として舞い戻るのである。ここにはPROVOKE時代の「挑発」という行為では語り得ない態度がある。自己の存在そのものを以って、モノそのもの、剥き出しの外界へ向き合ったのである。それは、小説や映画のようには読解することの出来ない世界だと感じる。

 

(3)矛盾:時代性

対する広瀬氏及びその作品群は、極めて健康的である。一貫して言行一致の人であり、前向きな、努力の人であるという印象を受けた。そして写真の意味がよく分かる。恐らく都市スナップ写真の愛好家にとっても、作家志望者にとっても、それらは冴えた技ではないだろうか。

自身の写真から個人的な主張をなくし、世界との距離感をずらして提示したいという作家活動の動機には、中平卓馬ともう1つの柱として、僧侶との対話を通じて得た仏教観があることが語られた。自己の消失を意識することと、仏教における「悟り」との関連を意識しているということだった。

しかし、広瀬氏の言動と作品は明らかに、写真家として世界に通用するための修練の賜物であり、高いポテンシャル、明確な動機、生きようとする意欲に満ちていた。悟ろうとすること自体が「執着」となり、悟りから逆に離れていくように、自己の消失について語られる度に、却って強い作家性を伺わせる。どちらかと言うと、「戦う」=「作る」という反応経路を意識的に日々よく鍛えた、ある種のアスリートを思わせる。

 

このように理屈上は、中平卓馬の思考とも、仏教観とも、広瀬氏の活動は真っ向から矛盾している。だがその矛盾状態を半ば自覚して引き受けていると思われるのが、本展示のタイトル:『欲視録』である。「"私"という人間の生き様」からは、絶対に逃げられないし、逃げることはない、それこそが仏教上の「欲」である、という、強い意志を感じるのである。「自己を滅した後に残ったものが写欲であった」という綺麗な語り口もあるだろうが、そのような分かりやすいレトリックはここでは置いておく。問題は、これらの矛盾が何から生じているか、である。

 

このスタンスの違いを産んだのは、広瀬氏個人の話というより、二人の生きた時代の違いによるものと言えよう。中平卓馬が「写真」に絶望しながら、権力や大衆への批判を続けていたのは、60年代以降の「政治の季節」に彼の活動と精神が深く関わっていたことが大きい。1980年生まれの私には、この「季節」――闘争、革命の意味を問われれば、東大安田講堂、放水、よど号、鉄球、永田洋子などの映像が悪夢のように回るだけだ。熱狂の夢が覚めた後の70年代には、思想の代わりに消費の祭が「日常」を牽引した。

現代はどうか。我々は政治にも日本にも、特段の希望は抱いていない。右肩上がりの繁栄はとうに終わり、人口は自然に減り続けており、自然災害も止まらないが、五輪を二年後に控えるこの国は、祭をまだ卒業しないと宣言している。個々人のレベルでは、ある種の絶望(=希望がない状態)、もしくは疲弊状態、すなわち思想的には死んでいるか植物状態であり、むしろ、思想が死んだままでも生きていけるように、暮らしが発達したのだとも言える。

これは戦後日本が目指した都市生活の、一つの完成形である。SNS上で繋がっては怒り、星占いと天気予報と業務メールとRTの波間を泳ぎ、クソリプを投げつけ投げられ、残業を禁じられ、プリン体を気にし、与党と野党をないまぜに唾棄しながら、僅かに残った万能感をポジティブ思考で増幅させつつ、毎日をハイパフォーマンスで生き延びる、そんな都市生活者として仕上がったのだと思う。

こんな日々のサヴァイヴを可能にしているのは、メディアを含めたインフラ網の進歩と、それに伴う「大衆」の細分化、すなわち個としての多様化であろう。この状況下で、広瀬氏も他の写真家も、「写真」に絶望する必然性はない。一つは、PROVOKEの功罪を客観的に評価できる距離にいるからだ。そしてもう一点は、生き方を個々人が選択できるからだ。何のために生きて、何を誰にどのようなチャネルで語りたいかを、選択する時代にいるからだ。 思想としての苦しみよりも、無数の「選択」に伴う苦しみの方が切実である。

中平卓馬との最大の違いはそこにあり、我々は「今」を前向きに生きることに特化している。確かにマイノリティやライフコース脱落(脱線)者にとっては、まだまだ厳しい社会ではあるが、過去に比べると一定の多様性は認められ、かつてよりも大胆で軽妙な選択肢の組み合わせを繰り出すことが可能である。それは「中平卓馬を引用する」ことと「戦略的に写真家としてのキャリアを構築する」「世界に通用する作家となる」といった前向きさを十分に可能にする。(それはひとえに、この社会/都市がまだ死んでいない(ことになっている)という余力ゆえなのかもしれない。)

 

(4)認識:無意識の文体 

ただしそれらの選択肢そのものは、過去から切り離されてはいない。実は都市も「写真」の文法も、過去から続いている。今この瞬間に見える都市のイメージは、今まさに生じて消える幻かもしれない。それら外界の表層を切り取り複製するのが写真の本質であり、瞬間瞬間の「選択」は今この時限りの瞬きかもしれない。だが、その切り取り方や、切り取るという行為自体を選ぶことは、戦後から積み上げて練られてきた基底言語、心身を稼働させるためのOSのようなものに紐付けられているのではないか。

 

広瀬氏は手法として、化学薬品によるネガ腐食だけでなく、「感情を入れずに(身体レベルでの)反応を大事にする・反応し続ける」、「目が悪いのにわざとコンタクトレンズを外して、見えない状態で撮る」「動きと動きの間を撮る、意味を出したくない」といった撮影上の工夫を重ね、可能な限り「自分」を介入させないように都市スナップを撮り続けている。

しかしそこにある作品は、どれも「決まって」いる。クールで高品質なスナップ作品である。わけの分からない、破綻した写真は、ない。むしろ、都市スナップとして理想的な間合いで、撮るべきカットを押さえにかかっている。目があまり見えていない状態で撮ったとは、想像だにしなかった。鍛えられたアスリートと感じたのはまさにその点、写真家としての身体の強さである。比べると中平の写真は、圧倒的に意味がわからない。それこそ、中平が撮ったものだと言われなければ、素人の試し撮りかと思うような写真も散見される。技ではない。もっと危険で根源的な何かだ。

 

この最大の矛盾をどう解釈したらよいのかを考えた時、撮影者(広瀬氏)が無心・無意識を心がけることによって、身体に刻み込まれたあるフォーマットとして、都市と写真の「歴史性」が表出したのではないか、と思い至った。広瀬氏そして私達鑑賞者の無意識下で共通して有する基底言語、OSがあり、それが都市での振る舞いや写真の型を「選択」させている、という仮説だ。

 

まず、「都市」と我々との関わり方である。都市の見え方、歩き方、関わり方は、思いのほか厳密に規定されている。通勤時のラッシュでは、歩調ひとつ乱すと迷惑行為になるため、細かな調整を掛けながら歩いているし、不審者と判断されないための挙動が配慮されている。体調に優れない日は周囲の流れと微妙にズレが生じ、肩や足、鞄の衝突頻度が増すだろう。視界においても、飛び込んでくる無数の文字や記号、色を瞬時に捉えて判断できないと、走る車に接触したり、電車の乗り換えに失敗してしまう。都市生活者の秒単位での身体調律が、ここに潜んでいる。

そして「写真」としてのあり方もまた、文法としての厳密な規定が我々の身体に組み込まれている。人物の入れ方、建物の配置、画面上の躍動感、ノイズ感の取り込み、画面上の四隅のバランス、逆光や影のドラマ感、闇の詩情、ピント、露出、補正、水平、焼き、等々、作品のクオリティに関する決まり事である。更に、写真家には「作家としての文体」や「独自の視点」「テーマとメッセージ」「未知なる風景への希求心」などといった情動が、極めて強い要請として、血に肉に眼に流れている。こうした総合的な「文体」の約束事が、我々(特に写真家)の身体に組み込まれていると言えよう。

 

PROVOKE以降、写真界そのものの生死を揺るがすほどの問い直し運動は、起きていない。銀塩からデジタルへの移行期においても、是非の議論はあったと思うが、大人の対応によって、むしろ写真の守備範囲は恐ろしく拡張された。むしろPROVOKE的な運動は、学生紛争や人民総決起などと同様に「それをやっちゃあお終いよ」と回避されてきた向きがある。やるとしても、横田大輔のように個々人が問い直しを行う時代だ。それもこれも、個人の「選択」なのである。

高度成長期より半世紀近くかけて育まれてきた、この都市と写真に関する約束事こそが、広瀬耕平のいう「無意識」や仏教観――自己を捨て去る試みのうちに、表出されたものだったのではないか。これが私の本展示『欲視録』に対する私見である。「それこそが「権力」を内在化させたものではないか!」と中平が舌鋒鋭く切り込んできそうな展開だが、2018年現在、我々はつまり、そのようになっている。私はそのことの是非は問わない。それもこれも全て「選択」なのだ。 

 

 

(5)回復:詩の復権

ではこれらの約束事に縛られたまま、私達は何者かの手の内で生きなければいけないのだろうか。それとも再びラディカルな挑発と闘争に火を灯さなければならないのだろうか。広瀬氏はここで一つ、自由になる方法を提示した。それは、映像に刻み込まれた波打ち際の泡と揺らぎのような、例のノイズ感である。

 

この広瀬氏の手仕事は、文字通り揺らぎとなって、それと向き合う者に自由な解釈をもたらす。波紋のようでもあり、苔のようでもあり、プランクトンのようでも、地層にも見える。その耽溺のひととき、写真として写された都市景は、匿名のイメージとして背後に下がり、鑑賞者は、そこに自分の見たいものを自由に投影するチャンスが生じる。

広瀬氏が「全国を寝袋ひとつで放浪した末に、東京に行き着いた」という最大の動機は、東京という都市の、匿名性ゆえではなかったか。「東京」は日本の一都市でありながら、「標準語」と同義となり、それ以外の日本中のあらゆる街を「地方都市」=固有名詞と化した。共通言語としての都市イメージに手を入れ、攪拌し、泡立たせて、揺らぎを作る。そこへ鑑賞者の眼が入り込み、めいめいの暮らしを癒すように、投影を行う。それは「詩」と呼ぶべき行為ではないだろうか。

 

この点でもまた、中平卓馬とは真逆なのである。

中平が「図鑑」たることを標榜したのは、まさに「詩」への批判であった。中平は、provoke時代の行為に対し、それは「夜」や「闇」へと世界を溶解させ、私的な主観による「詩」を確保することであったと自己批判した。そして、「私」の外側に位置する事物の存在を認めよ、情緒化されざる事物そのものの思考、事物の視線を認めよと、自身に強く迫った。「詩」の生まれるところを、自身の「気分」によるごまかし、それによる「思い上がり」と「目の怠惰」であると激しく訴え、こう絶叫する。

けんらんたる白日の下の事物(もの)の存在。事物からあらゆる陰影を拭い去ること。光あれ! この陰影こそ<人間>の逃れ去る最後の堡塁である。

中平卓馬「なぜ、植物図鑑か 中平卓馬映像論集」筑摩書房、2007)

 

だが、現在、我々は都市生活へ順応し、「都市」なるものと密接不可分の存在となった。ここでいう「都市なるもの」とは、郊外の自宅も、移動中も、その間ずっと触れているWeb世界をも含んだ、我々の生息域として考えたい。より高速に、より滑らかに、より便利に。都市と双方向・常時接続されている今も、インターフェイスへの改善欲求は高まる一方だ。それらを私たちから分断しては、大変だ。陰影の拭い去られた「事物」――モノそのものの思考に取り囲まれては、暮らしが成り立たない。最悪、発狂するかもしれない。芸術家であっても、中平のアジテーションには、たじろぐだろう。

我々は芸術家も一般人も、「都市」と一体化した生活者であり、日々の絶え間ない選択を高速で処理しながら、それを生き抜いていく者である。切り離し、立ち止まることは、事実上困難である。

 

むしろ、都市景を泡や波のノイズで洗い、再び「私」と「都市」との境界を溶解させ、そこに無名の詩を見出すことは、ささやかな喜びであり、癒しになるとは言えないだろうか。 

都市生活者が、広瀬氏の作品のあわいから無意識の夢を見るとき、何が映し出されるのか。その「詩」の瞬間こそが、彼の写真が真の「作品」となる地点なのかもしれない。

  

 

 

 (本展示『欲視録』は、7/31(火)まで)

 

 

 

奇しくも、gallery 176では8/17(金)~8/28(火)にかけて、中平卓馬の写真集『氾濫』に基づく展示が開催される。

この殺人的な炎天下の、真昼の太陽の下で、あの小柄で帽子で大きな眼鏡の男が、自転車を漕いではうろついているかのような錯覚を覚える。通じるかどうかは分からないが、作品を介して、彼の言葉を聴いてみたいと思う。