写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生&TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【diary】H30.7/18(水)あつい(台湾まぜそば)

【diary】H30.7/18(水)あつい(台湾まぜそば

あつすぎます。秘められし能力を解放しておりますが、そんなものは無く、一向に汗はひかず、室温もおかしい。だめです。耐え切れず、冷蔵庫に眠っていた2、3年前に人からもらった金麦を即飲みしました。私は普段ビールを一切飲みません。なので観測上実に珍しいことです。暑すぎるのよ。アアア。

あつすぎます。あついので脳が幻影を見ます。ハイパー・モネ現象です。街が揺らいで水面のようになる現象です。これが高じるとハイパー・セザンヌ状態に至り、物体が多方向円筒状に見えてくるという、一刻も早く点滴が必要なあれです。来世の平均気温に期待しましょう。それでは!

 

 

まだ意識がありました。この。わからずや。

たわごとで清涼感を得ます。

世界がなぜ暑いのか。今見えている世界が多次元の大きな膜だとしたら、その膜の向こうから何かとてつもない干渉というか別の世界が押し寄せてきているということでしょうか。その世界には誰がいるのか。残念ながらこの身体の知覚のチャンネル数が圧倒的に足りないので、それを受信・画像処理することができませんが、翻訳のデバイスをかませればいけると思いますね、ただ何が近づいてきているか分からないので翻訳のしようがない。なので基本的に外注です。分かる誰か、よい翻訳アプリを作ってください。以上。

 

つまり暑いということです。

しかしこんなに暑いのに、写真には残念ながら暑さが記録できません。こんなに暑いのに。これは視覚芸術の盲点です。写真は明らかにチャンネル数、次元の数をめちゃめちゃ削り落としている。この視界というものが巨大な膜だったとして、その膜性を指摘できる可能性はあったとしても、その膜の揺らぎと動濫がもたらす異様な不快さ自体を記録することはできません。できていない。

現在進行形の何かを、深刻に差し迫ったこれとかそれを現在進行形で伝えることには不向きではないかと思います。一部の物語叙述のうまい人は巧みな心理描写によって類推せしめますがそれってだから単にレトリックであって記録ではないよね。チョレイ。しかし写真にはもう歴史があり、そして簡便であるから、朝起きてシャツを着るのと同じぐらいの、生活習慣の一部となっていて、今更やめられるものでもないと感じています。もう貴方だけに縛られないわ、などと手を切ろうとしても、習慣に終わりはありません。明日もまた写真があります。

暑い。これらは生活の一部です、毎日繰り返す光景、それを切り取ったわけですが、実際には視覚がぶれるぐらい暑く、もうだめで、背中はどろどろで、汗が汗臭くなるメカニズムを呪い、パターンどころではなかった。パターン? 悪いけどそんなものあるわけないわ。そんなものは幻想なのよ? 何百回でも言ってやるわ、という私と、いやこれはパターンですよ、都市はパターン、私たちはパターン、線形の集大成ですよと抗弁する私とがいます。どっちでもいいんですが、

けれど夏は好きなので、好きなのに呪わしく、困りました。だって好きじゃない? 夏ですよ? けどさあ。あついよね。だめやん。厳密に言うと夏のことは好きだけれど、夏に付随する不愉快とそれがもたらす汗臭さや汚れといった不都合を嫌っているのです。吹雪の記憶を重ね合わせて。記憶を着れたらいいですね。だから肌と服の間にもう一枚、印象を着る。そこには特定の記憶を流し込んで単純化された五感を纏う。いいんじゃない。誰か開発お願いします。

 

 

だから暑いんですって。都市生活を営む上で我慢ならないのは、頑迷なルールです。何の種類の何色の服を着て。何時何分の電車に乗り。何両目のどこに陣取り。何分かけて移動して、何駅目で降りて何番線の何処行きの何に乗り換え、何時何分頃に職場入り。これらのどうのこうのという手続き、この総体が、都市生活の正体です。それ自体に意味や実体はありません。それを繰り返すことによっても肉や野菜は育ちません。ただ手続きが連鎖して組みあがっていくだけです。しかしその手続きを踏まえることで、法令や規則を守り、労働基準法やなんやを満たすということになり、賃金というものが制度上発生し、暮らしが発生します。なぜなら手続きに信憑性が生まれ信頼が高まりそれが資本主義経済上の評価に繋がって価値があれだからです。すると跳ね返ってルールを守り、その中でよりよいパフォーマンスをやることで、生存の価値評価が生じます。つまりこれはゲームです。私はカッターシャツを脱いで、Tシャツで出勤します。ゲームを一部放棄したわけです。なぜならゲームが続行不能なぐらい暑いからです。あっホースがきれいですね。蛇だ。

 

 

これは台湾まぜそばです。美味しかった。

昨日「梅田は食が死んでいて、特にラーメンが死んでいる」とわめいたら、心優しい仲間から「梅田ではマルショウの台湾まぜそば、一幸舎の博多ラーメン( どろどろじゃないけど)、踊るうどんが好きです」との応援をいただき、マルショウに来ました。台湾まぜそばは正義だ。 私は満足しました。人生の様々なことが解決したように思えました。そして「ああ、この高揚感を伴ったままであれたならば、鈴木理策のような世界が見えるかもしれないなあ」などと反芻しました。とんだ過信です。熊野に謝れ。 

 

世の中、有識者が集まっては、悪書、よくない表現を規制すべきだという議論を重ねているようですが、自分の理解できない世界を否定して殺すことに生きがいを感じる人種というものはいつの時代どの社会にもいるものです。ゲームをしたこともない層にとっては、ゲームをすると知能の低下や犯罪の温床をもたらすということらしいです。それはある層にとっては正義で、ある層にとっては敵で、そしてまたある層にとってはどうでもいい雑音です。おまえらスプラトゥーンいっぺんやってみれ。悪もクソもなく、ただPLAYという言葉の示す聖域を見るであろう。

全ての規制の後に残るのは、厳密で洗練された手続と、猫とカラスぐらいでしょうか。しかし残念ながら。犯罪を犯す者は睡蓮を見てもサモトラケのニケを見ても、立派な犯罪をいつか犯します。ボウリング・フォー・コロンバインからやり直せ。

 

ビールのせいでしょうか。文体の走りが荒いですね。そういう薬効があったということで理解しておきます。ああ、巨乳の美人になりたい。