写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生&TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【写真展】勝又公仁彦「Right Angle -white next to white-」(H30.6/8 トークショー ✖ 松本久木)@YOD Gallery

【写真展】勝又公仁彦「Right Angle -white next to white-」(H30.6/8 トークショー ✖ 松本久木)@YOD Gallery

 

 以前、「写真表現大学」の特別公開講座でお世話になった勝又公仁彦(かつまた くにひこ)先生が写真集「Right Angle -white next to white-」を発刊。それに伴い、東京、京都、そして大阪で個展が催された。

H30.6/8(金)の晩、大阪・西天満のYODギャラリーではトークショーが催され、写真集の出版に携わったデザイナーの松本久木氏と軽妙なトークが繰り広げられ、約2時間があっという間に過ぎ去った。

 

その「写真」は、今までに見たことのない写真だった。

 

(そういうわけで以下、2~3時間あまりの講座ではあったが生徒という立場だったので、「勝又先生」と呼ぶことにする。) 

 

 

 

 これである。

 

抽象絵画だろうか」

「平面?」「もしかして立体?」

「光?」「建物??」「…平面…?」

「これ、写真???」

 

等々。

静かに問いを投げかけてくる作品である。ただし直球である。静かだが、映像自体の自由度は思ったより限られていて、そのため受ける印象の振れ幅は少ない。何かについて語っているようで、語り終えた後の世界に立ち会っているようでもある。

 

真水を飲んで「美味しい」と感じる瞬間の、得体の知れなさに似ている。

 

味のないはずの水を「うまい」と感じるのは、なぜか。その「うまさ」は、奥行きはあるが、すぐ硬いところに突き当たる。透明なのに、主張がある。何もないようで、他に例えられないものがある。

観客はこの、空間とも様式ともつかぬ真水のようなこの、何かを、まずは一旦、全て受け容れる他はない。

 

解釈の手掛かりとして、会場にはテキストが置かれていて、「抽象画」「三次元」「二次元」「視覚」「脳」「素材」といった納得のいく言葉が並ぶ。納得がゆくがゆえに、作品を何となく分かった気になってくる。

 

納得のいく言葉があることで、解釈が一気に進む映像があれば、ある程度のところで踊り場に突き当たり、同じところをぐるぐる回ってしまう映像もある。この作品は後者のような気がする。 

こういう時は言葉で考えるのを停止して、ただ真水を飲み干すように、踏み込んでみる。舌ではなく喉の奥で味わうように、映像に眼を投げ込む。

 

すると、眼は手掛かりとして、微妙に浮かび上がっている「線」を掴もうとする。この線は不思議なことに、ポストカードや写真集のサイズではある程度はっきりしているが、展示品のように長辺が1.2mに達するサイズでは、かなりおぼろげな像であることに気付く。

 

実はこの白いものは、建築物の内部で面が収束する部分、つまり「角」の構造を、フルサイズのデジタルカメラで撮影したものだそうだ。(先生補足:4×5や6×7で撮ったものもありますとのこと。どれがどれか当ててみましょう。)

よって線として見えているものは、線として描かれたものではなく、面の繋ぎ合わせで生まれた、空間の折れ目であり、陰影のあらわれである。

「平面か、立体か、線なのか」を眼が戸惑うのは、そのどれでもなく、そのどれでもあるからだ。

 

作者はあえて、建築物の中で抽象的に見える一点を探り当てて、3次元の立体空間が、平面と立体の狭間で解釈が揺らぐことを、企図して撮影し、作品化している。ここでは写真家は、時空の彫刻家となり、シャッターは時空間へと振り下ろす鑿の一撃となる。

 

どの「空間」でも、このような抽象化、彫刻化は可能だろうか。

写真は絵画や彫刻と異なり、どこまでいっても複製技術で、作品は「現実の複製」である。デジタル化され、レタッチの自由度が高まっても、その本質は揺るがない。だからこれらの写真は、どこかにある「現実」の複製であるはずだ。しかしこのような「現実」は存在するのだろうか。むしろ純粋な観念の世界にも思える。

 

何点か押さえてみよう。

一つは、写し取られている「建築」そのものが、その本分として、観念の結晶化を実現させることを仕事としている点だ。

本作は、写真化することで初めて出現する抽象画である、と言えそうだが、その元となる現実の「建築」こそが、そもそも理念や計算を高度に組み合わせて出来上がる、純度の高い観念の世界である。重力に抗して物を立ち上げること、気象の変化の介入や動植物の侵入を防ぐこと、「空間」を作り内と外を分割すること、こうした試みは全て自然界には無い、不自然で人的な営為である。

その人智の粋が結集する一点こそが「角」だろう。建築という秘術の生み出す成果が最も端的に現れるところである。自然界には純粋な「角」は、鉱物の結晶を除いては、まずお目にかかれない。モダニズムの叡智の賜物であり、反面、原初の信仰にも結び付きそうな、特異点でもある。そうした世界を写真は「複製」しており、写真(機)自体は絵画のような能動的な運動の熱を持ち合わせていない。このことが勝又作品に、客観的なクールさ、真水のような温度の無さをもたらしている。

 

 

二つ目は、「抽象」という世界観である。

 

ここで、「抽象」と呼んでいるものの正体を確認してみよう。

抽象抽象とよく言うけれど、人類は抽象概念そのものを取り出して扱えるほどには観念的な存在ではなく、先行事例の記憶を脳内本棚から取り出しては照合を試みていることにまず気付かされる。

私が作品と対峙する時に連想し、対置したのは、まさに「抽象表現芸術」―― カジミール・マレーヴィチ『黒の正方形』『白の上の白』(1910年代)、ピエト・モンドリアン(1920-30年代)、そして大戦後のマーク・ロスコ(1950年代~)、バーネット・ニューマン(1950年代前後~)など。ミニマルアートではドナルド・ジャッドの金属立体(1960年代~)、リチャード・セラの鉄板作品(1960年代後半~)、などだ。

月並みだがいずれも、「抽象的」な平面あるいは立体表現の代表格である。細かいことを言い出すと、それぞれ作成年代が異なるし、制作の動機、作者の背景などは全て異なる。しかしあくまで大雑把な印象としての「抽象」として対置することにして、勝又先生の作品と比べてみよう。

 

 すると、これらのいずれの世界観ともまた、「Right Angle」は異なることが分かる。

というのも前述の通り、勝又作品では「線」が不確かなため、「面」もまた、単なる平面なのか、奥行きとしての表れなのかが、視覚の処理工程で判断できず、保留扱いになる。線、面、間のいずれの属性も「はっきりしない」=そのどれでもある、という点で、先述の絵画表現とは最初から一線を画していると思われる。

 

抽象絵画にせよ、ミニマルアートにせよ、それらのムーブメントを産み出した力は、ルネサンス以降の西欧史を貫いてきた「遠近法」の視座からの脱却を試みる運動、絵画史の更新という一大事業であった。

つまり、抽象度の高い「平面」は漠然と生じたのではなく、セザンヌマティスらに代表される先進的な画家の探求心によって、意識的に追求されてきたものである。特に戦後の現代美術においては、美術がコンセプト化し、コンセプトの更新を重ねることでしか、次の代のムーブメントが自身の正当性を主張できなくなる中で、平面化が急速に推し進められたとみられる。

また、コンセプトである以上、「何を表わそうとするか」という動機、コンセプトそのものが表現行為、先に立っていると見るべきであり、勝又先生の写真作品(=既製品としての建築物を複製した)とは成り立ちがまるで逆である。

 

しかしここで抽象表現の重要な本質が関わってくる。「遠近法」についてである。 

そもそも「遠近法」は、人の眼に生来的に備わった機能なのだろうか?

実際には私たちは、遠近法によってこの世界を見てはいない。試してみれば分かるが、思ったよりも肉眼の視野は狭く、遠くのものを見ようと意識を集中した際には、その標的がクローズアップされる代わりに、周囲の様々なものは視覚処理の外へ、見ることすらできない。

かたや、ルネサンス期以来、絵画というメディアによって発明された「遠近法」という視覚技術に慣れ親しむ中で、人類は長い月日をかけて身体、意識を変容させた可能性もあるのではないか。現在の我々の視界は、長年にわたる改良の賜物かもしれない。

なるほど確かに、近代絵画以降は、遠近法は幾度となく批判され、その先にある視覚世界が追究された。しかし我々の身近な生活のレベル、義務教育の過程では、デッサンにせよ風景写真にせよ、視覚表現のほぼすべてが遠近法を土台としているのではないか。私たちの眼や脳はまず「遠近法」を標準搭載するよう、幼少期より「訓練」されている可能性が高い。

 

すると、勝又作品を前にしたときに戸惑い、掴みどころに迷い、立体と平面の間で「立体と平面のどちらで見ようかな」と選択をしようとするのは、まさに我々の訓練・調律されてきた遠近法の視座を、根源的に揺るがす眼差しが、作品によって投げかけられていることになるのではないか。

 

そしてこれらの抽象表現には、もう一つの重要な特徴がある。その表現の動機には、神智学の影響や宗教上の信仰心が相当に織り込まれていることだ。代表例として、先に挙げたマレーヴィチカンディンスキーマーク・ロスコ、バーネット・ニューマンらはまさにそうした神秘、信仰を盛り込んでいる。

 

神智学を簡潔に説明することは難しいが、瞑想や直感、思弁などによって感覚を統合し、神秘体験を通じて神や世界の全ての起源を探求するものだそうで、仏教や錬金術とも関連しているとされる。絵画の平面化、抽象化を追求する中で、これらの神秘体験の極意が引用され、線や点、記号が音楽や舞踊のような躍動感と律を伴うのだという。

 

信仰心についても、例えばユダヤ教プロテスタントでは、偶像崇拝、宗教的図像が禁止されていた。そのため抽象表現という目に見える具体的な像を扱わない表現様式が、崇高な体験、信仰の念を表現するために一役買い、深い神秘性を表わすことに結びついている。

 

ここまでの要点をまとめれば、勝又作品の肝とは、観念化された近代建築の粋を「複製」したもので、その成立手順からすると抽象表現芸術とは真逆であるものの、抽象表現に特有の、何か信仰に近い神秘性があるのではないか。こうした指摘はできそうである。

 

 

めでたしめでたし、トークショーは楽しかったです。などと締めくくりたいところであったが、どうも気持ちがよくない。

 

カジミール・マレーヴィチである。

 

勝又作品体験における「真水を飲んで美味しいと感じる」感覚に最も近いのが、マレーヴィチであり、それ以外の作家は、真水どころではない。もっとごてごてと壮大だし賑やかだ。マレーヴィチだけが、真水の旨味、真空の美を強く湛えている気がする。

 

マレーヴィチの到達した「シュプレマティズム」(絶対主義)は、他の現代美術の作家らをぶっちぎりで引き離す思想で、この作家と作品を他のいかなる抽象表現とも異なる「極地」へと立たせている。それは、十字や円、四角形などの幾何学図形のみがあり、意味を持たない。表現の対象もない、無であることそのもので成り立つ平面作品である。究極的には、ただ真っ黒な正方形や、真っ白な正方形を描いた。これらはロシア正教イコン画を配置すべき場所に掲げられて展示され、伝説となった。

 

マレーヴィチのどこにも向かわない、真っ黒な、あるいは真っ白な図形は、しかし手塗りなので、全く完全な平面、完璧な一色というわけではない。手作業であるがゆえのノイズ、揺らぎはあるはずだ。しかしいくら意味や内面を掬い取ろうとしても、そこに表されている世界には、意味や内面は元から託されてはいない。その禁欲的さゆえに、絵画自体が恐ろしく強い、信仰そのものとなる。

 

この特異な神聖と、勝又作品との関わりはどうか。客観的なエビデンスがないので、私が作品から受けた体験や印象が頼りとなっているが、同様のことが、勝又先生の作品においても言えないだろうか。

ここで注目したいのが、これまでの勝又作品における信仰心の発露である。

 

 

 

 

 

 

一見、勝又作品は、クールな都市論のようにも思える。勝又先生は都市における時空間の動き、変遷を1枚の映像で表現することに非常に長けており、撮影時期を変えて同じ地点を複数撮影し、それらを連続面で繋ぎ合わせたり重ね合わせる。あいちトリエンナーレ2016、21_21 DESIGN SIGHT「都市写真」(2018.2-6月)で、都市の脈動と静謐に触れた観客も多いだろう。

しかし膨大なテーマを同時進行させてゆくこの作家においては、これらクールな都市景の映像は文字通り氷山の一角である。

トークショーでは、約40近い(!)テーマを手元で育み続けているという勝又世界の幅広さを皮切りに、それらを横断しながら、うち幾つかをピックアップして、個別の製作エピソードが語られた。撮影枚数があまりにも多過ぎて、この世の誰も(松本氏、そして勝又先生本人ですらも)そのイメージの全容をうかがい知ることは出来ないようだ。奇跡的にも(?)、選び抜かれて作品として紡ぎ出されたイメージ群の、根底に共通して流れているものについて、特には言及されなかったが、察するに、どこか、古代の祈り、「信仰」らしきもの、聖性が徐々に見えてきた気がする。

 

この点は詳述するにはまだ圧倒的に情報がない。 恐らくまだ作家自身にとっても、である。本展示を第1作目として、これらのテーマは順を追って、1冊ずつ写真集の形で姿を現わされることになるだろう。そのような野望が語られた。

 

松本氏が本作について指摘した「明快な曖昧」「多様性を許容しない」感じは、マレーヴィチを傍らに置くと理解が進む気がする。その「強さ」をもたらしているのは、この抽象の正体が、被写体である建築物についての複製であることと、それ以上に、作家自身の何らかの「信仰」が、その眼差しに根を下ろしていることに起因しているのではないか。

 

信仰として見るとき、これらの抽象世界は優しい。マレーヴィチの描く無対象の図形・シュプレマティスムを、「和」感性、おおらかさで包んで、幾何の角を取ったような優しさがある。風土の違いか、根差す宗教の違いか。

これらが総じてもたらす効果が、「遠近法」の発明以降、長きに亘って調律されてきた我々の眼を、解きほぐすものとなる。それは古代の眼差しと言えるかもしれない。

遠近の狂い、天地左右の混乱、柔らかな光、平面と空間の両義性、どこにも対象のない表現・・・ 神のいない信仰のようだ。古代の眼から、この都市社会の内面を見つめているかのような視座である。

 

というひとときでした。

解ったような口振りで書いているが、 こうして言語化の難しいことをつらつら書くことが出来たのは、勝又先生と松本氏の軽妙で知的なトークあってのことである。私に正解の引き出しがあるわけではない。

本blogでは作品の読解に紙面を割くことにし、トークの中身についてはぜひ皆様でまた次の機会に体験いただきたいと思う。

 

勝又先生の喋りの最中に「はい、かっちゃん、質問」「かっちゃん訊いていい?」「かっちゃんのそれは~~~だと思うんだけどそれってどうなん?」と、最高に気さくで的を得たQを差し込む松本氏が印象に強く残った。

 

そして、写真集である。会場に掲げられた巨大な白い平面空間の作品のエッセンスを引き継ぎつつも、より繊細で柔らかな世界を醸し出していた。この優しさが、他の抽象表現、果ては、平面性に特化した昨今の様々な写真作家の作品との、最大の違いである。松本氏の仕事、恐るべしであった。

  

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

  

こうして、言語化し得ない感覚を、一週間ほどかけて言語化してみようと、行ったり来たりを繰り返していた。今、長い旅に出ていたような気分である。旅はいいものです。いい。

 

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 勝又公仁彦「Right Angle -white next to white-」

 H30.6/8(金)~6/30(土)12:00ー19:00 @ YOD Gallery