写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生&TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【写真展/KYOTOGRAPHIE】K-NARF @京都市中央卸売市場 関連10・11号棟 / ギデオン・メンデル @三三九

【写真展/KYOTOGRAPHIE】K-NARF @京都市中央卸売市場 関連10・11号棟 / ギデオン・メンデル@三三九

 KYOTOGRAPHIE2018で最も「面白かった」のは、未知なる「京都」を大胆に見せてくれた、JR丹波口駅付近に広がる京都市中央卸売市場の関連会場でした。

 普段は立ち入れない場所に、アートを口実に散策できる。それがアートフェスの最大の利点です。わあい。

 

これも京都か。

どんな街にも個々のブランド、キャラクターがあり、その一方で、表向きに語られない特徴も有しています。この市場は1927年、全国発の中央卸売市場として開設。今回の写真展示は市場本体ではなく、その周辺、附帯施設の一角で行われました。青果・水産の市場本体はまた別にあるのですが、今回は触れていません。

なお、2016年3月に京都市が再整備に向けたマスタープランを策定しているので、今後は一帯で再開発が行われ、この光景は貴重なものになるかもしれません。

 

◆K-NARF 「THE HATARAKIMONO PROJECT」@京都市中央市場関連10・11号棟

東京在住のフランス人作家による作品、市場施設の外壁に等身大の写真を並べている。被写体は、市場で働いている人たち。

こんちは。 

 

 

解説によると「あらゆる仕事、そしてそれに従事している人へ敬意を払うという日本文化が現代社会から姿を消してしまう前に記録し、梱包用テープにデジタル画像を転写する独自の手法にて保存・発表している」とのこと。

「はたらきもの」という言葉は、作者曰く「一生懸命、真面目によく働く人に対し、敬意を持って表した日本語にしかない表現。」だそうで、日本の中にいるとそういった文化的な際には全然気づかないものです。

 

しかし現在、日本においても、労働における成果と対価の関係や、個々人の生き方については、非常に揺れ動いている状況があります。本人が働きたくても「働き方改革だから帰れ」と言われたり、定時内に終わらない状況があっても「超勤命令は出せない」と上長に言われるのでサービス残業という、例のアレです。

私の身近な仲間からも、事実上のサービス残業が常態化していたり、フリーランスの身分ゆえに安いのか妥当なのかよく分からない額でまるっとした依頼を投げられるといった実体験をよく聞きます。月72時間近く残業をつけた担当のことを、幹部クラスが密室や居酒屋で人非人の如く罵るという風景など、御社ではいかがでしょうか。

 

作者の指摘する「はたらきもの」への敬意は、素朴な感情として、とても大切なものであります。というか忘れていたので懐かしかったです。子供のころはあったと思うんですが。

一方でこれが権力・資本の手に渡ったときには、対価を抑えて出来るだけよく働かせるための方便、美しいスローガンに使われる図も想像できてしまうのであります。あいつら頭いいからなあ。かしこいからなあ。使えるものは死人でも使う。かないませんなあ。

 

「労働時間」の定義を厳密化して管理し、違反には罰則を。それで極めて高度な技術や知識の研鑽を積むことは、常人に可能なのか? シンプルな疑問もあります。もちろん徹夜を繰り返してまでクライアントへの提案資料のフォントや色に凝るのとは違う話ですよ。例えば医師。

労基署が「医師への残業代未払い」等の件で病院への立ち入りに踏み切ることが珍しくなくなった昨今ですが、医師など特に高度な技術職において、定時の枠の中だけで何かを極められるのか。素人目に見ても無理なんじゃないかなと思います。国からの上から目線での押し付けだと、けっこう権威のある方が怒りの筆を執っていたりしました。まだまだ「労働」のあり方については燻って揉めたらいいと思っています。

 

 

 

同じ作者によるマシーン各種。一体何の出力装置だか分からない。無意味に基盤や釦、切手などが張り付けられていることから、インスタレーション作品と思われる。

  

といった風に、写真の話よりも、「労働」あるいは「労働者」とは何なのかということを考えてしまう展示でした。

 

労働と対価について線引きを厳密化したら、例えば、企業には管理部門だけを置いておいて、あとの企画から分析から営業から「仕事」の実働部隊は全て個人商店、ベンチャー等に委託してしまえ、という、やや極端な社会の姿は一例として想像できます。

そこには新しい「はたらきもの」と新しい「ブラック労働者」が生まれ、Twitterが荒れたり称賛のリプライで満ちることでしょう。やな未来だな。

  

といっためんどくさい話は一旦置いておいて、展示エリアの周囲では、路上の雑多なもの(原付やチャリ、ポリバケツ、タイヤ、わけのわからん金属片など)がオブジェのようにうごめいているのを観察でき、なかなか楽しかったです。

 

 

平時の路上で、よそ様の土地で、しゃがんでカメラ向けるのはなかなか気が引けます。写真展だからという口実が使えるのはありがたいことです。地元でも気が引けるのでまずやりません。酒でもあればいいのですが、それでは個展のたびにアルコール依存症になってしまいます。ぐええ。困った。降参です。良い世の中になりますように。

 

次の会場に向かうと肉の匂いがします。あっ煙だ。なんで。

このビル1階吹き抜け部は、「バーベキューコート339」(さざんがきゅう)といい、人が集って肉を焼いて食べるイベントスペースになっていました。

 

パーティー感の高い仲間連れの方々がめっちゃ肉を焼いていて、チケット・物販コーナーが肉を焼く煙の中にあり、「写真と肉か・・・」「変な取り合わせだな」と戸惑いましたが、今思えばKGと全然別枠の催しです。じゅうう。酒を飲みたくなりました我慢しました(棒読み)。

 

◆ギデオン・メンデル「Drowing World」ー「氾濫」@三三九(旧貯氷庫)

肉パーティーの雰囲気と真逆に、シリアスな作品です。ギデオンの作品は、世界各地で起きている洪水被害の現場を撮影したシリーズで、「氾濫」は旧貯氷庫の暗闇の中で展開される動画作品です。

ちなみに「三三九」(さざんがきゅう)は会社名で、お米屋さんであるとともに、この卸売市場周囲のリニューアル計画にも携わっています。

5つのスクリーンで別々の国の洪水被害が写し出される。13か国で撮り集められたものを編集して、同じ画角、動きの映像を並べているため、まるで同時に各地の被災地を取材しているような臨場感と、動きのシンクロが響き合って美しさすら感じる。

この編集力が優れているので、悲劇が起きている現場なのだが、こちらはそれらについて解釈する手を止めて、流れる映像をまず受け止めていこうとする作用があります。

 

こうして写真にして、ワンシーンだけを取り出すと、ともすれば被災地の被害について住民が語るのを収めたルポルタージュのように見えます。しかし動画では淡々と、溢れた水が漂うのと同じようなペースでカメラが進み、彼ら現地住民は静かに歩き、かつての生活の場へざぶざぶと分け入り、佇み、椅子に腰かけ、時を過ごします。  

 

この世界観は、グローバル経済の波の影を思わせます。グローバル洪水とでも言うべきもので、ゲリラ豪雨などの災害が相次ぐ日本列島においても、ギデオン氏の作品にて登場する日は遠くないかもしれません。

地球のどこが次にターゲットとなるか、今のところ誰も打ち手がありません。スパコンとAIが精度の高い予測を出来るようになったとしても、人類は逃げることぐらいしか出来ませんし、規模によっては新たな難民問題をもたらすでしょう。

 

五十嵐大介という優れた漫画家がいます。彼の作品『SARU』を思わせる世界の有様です。「SARU」とは、古来から世界各地の神話に登場する猿の姿をした超存在ですが、それらが結集して地球規模の破壊生命体(=国レベルの異常気象の塊)となり、現代の地球を蹂躙します。

ラストでは、人間側にも継承されてきた、同等の力を持つ超存在が体を張って「SARU」を停止させます。残念なことに、五十嵐作品と違って、我々人類の側にそのような超存在が隠れているといった話は聞きませんので、やられるがままになりそうです。わあい。酒を飲みたくなりました我慢しました(棒読み)。

  

甚大な被害を負った当事者とその家屋を捉えながら、生活苦や心の傷を忘れてしまうほど、極めて美しい画です。水面に光が反射し、内装を不思議な明るさで見たし、人物が浮き彫りになります。絵画の世界のようでした。

 

このギデオン・メンデルの告発する世界の状況と対応しているのが、京都新聞社ビル・印刷工場跡で展示されたローレン・グリーンフィールド「GENERATION WEALTH」だと感じました。

(ローレン・グリーンフィールド「GENERATION WEALTH」)

 

ギデオン作品は、圧倒的に手の施しようのない自然災害の真っ只中で立ち尽くす民を、絵画のように静謐に見つめます。

一方でローレン作品では、消費社会・資本主義社会という枠組みの中で極端に膨れ上がった富の享受者と、それらへの憧れ・追従のシステムが半ば病的に稼働していること、それが世界規模で蔓延し、富の固定――階級社会と化していることを指摘しています。

今年のKGが面白かったのは、この世界の2軸を見たことです。

 

  

こうして「世界は基本的に残酷だなあ」という月並みで面白くない見地を得まして、本来ひどく陰鬱に落ちて、酒が進むわけですが、それをこう、他者に崇高さや尊厳を込められた形で受け止めることが出来るのは、これらの表現に宗教と美術が歴史的に積み重ねてきたエッセンスが活かされているからだと実感します。

ギデオン氏は南アフリカ出身ですが、私のごとき日本の無学な事務職員でも、伝わるものがあるわけです。世界を想いながら酒を飲みたくなりましたが我慢しました(棒読み)。

 

つづく。

 

mareosiev.hatenablog.com