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ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真展/KG+】◆元・淳風小学校(前期:顧剣亨、relaxmax、東地雄一郎、ガブリエル・ド・ラ・シャペル、森本洋輔、愛場大介、等)

【写真展/KG+】◆元・淳風小学校(前期:顧剣亨、relaxmax、東地雄一郎、ガブリエル・ド・ラ・シャペル、森本洋輔、ジェットダイスケ etc)

 

平成29年3月で閉校となった淳風小学校は、1931年竣工という上品なレトロ感を活かし、KG+展示会場として活躍していた。

 

宮殿 ( ´ - ` )

ここではKG+会期前半(H30.4/11~4/22)展示を記録します。

 京都駅の北側、堀川通を挟んで西本願寺東本願寺が建っているが、西本願寺のちょうど北の端に淳風小学校は位置している。

我々はJR丹波口駅から歩いて学校を目指した。どういう街づくりの結果なのか分からないが、街が異様に平坦で、ジオラマで作ったようだった。

 

五条通もさることながら、大宮通もどことなく無機質で平坦だ。

 

学校きた。JR丹波口から徒歩15分ほど。KG+色に染まっていて祭りの雰囲気があります嬉しい。

 

のどかですね。昼飯に度数25度のラムをたっぷり飲んできてしまったので減点です。カレーとラムって別に合ってなかった。あとでアル中扱いされます。

 

 

会場です。展示作家が12人と多いので抜粋してさらっと記録します。

 

◆顧剣亨(コ・ケンリョウ)「Utopia」

現代の生活環境、風景が、個々人の快適性の追求によって「プライベートユートピア」と化していることを指摘し、個々のユートピアの「はざま」=手入れされていない景色、を撮っている。世界中が均質化していくことへの警鐘を鳴らすといった趣旨も込められています。

 

都市景だけでなく自然ぽいものもある。これ単体で見てしまって意味を掴めていません。会場全体の配置によって呼応しあっていたかもしれない。コスモス薬品の看板の1枚でコンセプトシートの趣旨をだいたい満たしていたので後がおろそかになったらしい。

 

都市における手入れと手入れのはざまはすごくよく分かるが、この自然景に近いシーンをどう解釈するかは、ちょっと全体の構成、配置で読まないと分からなかったな反省。

問題意識は私と共通していて、快適性のために都市生活がまんべんなくデザインされていること、それによって均質化が進んでいること、同感です。そこにわざわざヴァナキュラーがどうとか言うつもりもございませんで。

 

◆カルロス・ゴンザレス「Contemplation」

作者は「瞑想」と訳していた。自然の事物のすべてと自身が一体化するところで、光を放つのだという。

 

 

 

ちょっとこれは展示空間が気の毒すぎる。瞑想、黙想と、旧式の学校のノイズ感は水と油ですわ。むしろ学校の細部に目が行く。

( ´ - ` ) 音楽室で全面黒い布を張りまくったら何とかなっただろうか? 次はお寺でやってほしい。

 

◆relaxmax「HIMATSURI」

京都・鞍馬の火祭りを取材。2016年には観客としてロープの外側から、2017年には氏子さんとの出会いから祭りの中に入り込み、ロープの内に立って炎を撮った。

 

 

火祭りいいですよね。

一時期、炎に取りつかれていました。京都北山「花背の松上げ」、愛知県西尾市「鳥羽の火祭り」、そして石川県「能登島向田の火祭り」に行って、いずれも脳髄がじーんと焼け痺れるような興奮と神秘を叩き込まれました。

祭りの由来は、修験道のなごりとか、霊を送るとか、病を鎮めるとか、豊作豊漁祈願、あるいは複数の歴史的経緯が習合されて一本化したなど、それぞれにあるのだが、それらを顧みる余裕がないぐらい、何かを持っていかれた。

理性が飛ぶのだ。

古代のエクスタシーが火祭りにはあるのだと思う。暗闇で火がゆらめいているだけでも意識の変容があるのだが、大勢の人間がそれを投げたり振り回したり奪い合い、規格外のデカさの炎がゆっさゆっさと、生きた獣のように闇に吠える姿は、畏怖すべき神なる太陽を、今そこに一部だけ召喚してしまったようなものではないか。をああ。フラッシュバックで汗が滲んできた。いかん。

火祭りには鋭い快楽があるはずだ。

それがなければ理由をつけて廃止している。千数百年もの間、各地で継続されていることには、何か根本的に人類から切り離せない理由があるはずです。

 

人類は神と違って、か弱い存在なので、自らの身体に炎を宿して生きることができません。しかし知恵と技術を身に付けて進化していくにつれて、全能への欲求は高まり、炎への希求はますます根深いものになっていったのかもしれません。

 

というくだりは本展示と全く関係のなく私がその場でときめいたことです。ドルオタが萌え死んでると思ってください。

 

本展示は単に炎の神秘性への礼賛にとどまらず、火祭りと共に生きる地元の方々を巻き込んだドキュメンタリーとなっており、作家としての踏み込んだ姿勢が見えました。 ドルオタの萌え死ではないわけです。

 

 

◆東地雄一郎「A=A A≠A」

 これはやばい。元・淳風小学校会場で、ぶっちぎりで面白かった。今後、メディア芸術祭などに登場してもいいのでは。

 

 

これはやばい。

 

やばいなー。何を言っているか分からないし、そもそも写真じゃない。

 

 ぐわー。

 

 ガガー。

 

元は富士山と湖の写真1枚ですが、それを複写し、複写したものを更に複写し、と、自然数をひとつずつ2000回積み上げた結果、別の何かになっていくという作品(思考実験)。

発想としては「ある事象に極端な演算を施してバグらせる」ことで、漫画家・小林銅蟲の領分に近い。

違いは、小林氏は漫画という記号的メディアの都合上、1~2コマの間の問答で切り上げるところ、東地氏は会場となった理科室の全スペースを使って思考実験をやりきり、ブツのかたちで過程=成果をともに見せる。

 

  

 1962年に国産コピー機が登場し、以来オフィスを中心に必須設備として普及しましたが、60~70年代当時のアーティストで誰かこういう取組をしていても全くおかしくないですね。探せていませんが。いないかな。

しかし現在、コピー機があまりに「当たり前」になり過ぎたことで、かえって「複写」「複製」という技術について考えることがなくなっていました。その虚を見事に突かれた感があり、はねかえって「新しい」と感じました。水道水のように普及してしまった技術について、改めて基本から問い直すことで、新しい映像表現が見えてくる。

   

  

コピー1000回を超えてくると相当不気味で、像が繊維化している。乾燥した病理標本みたいだ。色や形の情報が粗くなるにつれて、グラデーションが0か1でしか処理されなくなる。だんだん細部が抜け落ちて「黒か白か」だけになっていくようだ。これが元・富士山の絶景だとは信じがたい。ある種、抽象絵画の制作工程を見ているようでもある。 

 

短い会期で片付けられるのが惜しい。どっかの科学博物館などで常設展示しておいてほしいものです。これは「複製」がどういう現象なのかをよく示しています。像は複製によって情報が徐々に「劣化」するが、それは複製品を実用しようとするレベルの話で、そこから先の領域はまさに「別のなにか」に変貌しています。いいなあ。

 

 ◆周傼順(ジョウ・ハンシュン)「Frenetic City」

この写真はどう読んだらいいのか・・・と困っていたが、キャプションを読むと、作者の住む香港の都市部における喧騒、人口過多、熾烈な競争社会の様相を捉えたものだという。納得した。ぱっと見たとき、日本の都市部かと思っていたのだ。

今の日本の都市で、「熱狂」と通行人のモノクロ多重露光は、ありえない。将来、あふれかえる高齢者を撮るならアリだが、もう日本は30年前ぐらいにこういった時代を終えてしまった感がある。近代化は終わりました。しくしく。

 

 勢いがある都市ですね。「勢い」。ないなあ。どこかの国の奇祭でも見ているような写真でした。うちの国なあ。交通マヒとコミケと国会前デモぐらいか。

 

◆眸「M」 

 

 

 ( ´ - ` ) アー

解読できませんでした。

日常で見かけるシーンに、何かどことなく引っかかるイメージを抽出させ、その普遍性や共通性を問うているのか。

鑑賞者の眼に、アンカーを、銛を打ち込むような1枚、2枚がほしい。無言で立ち去ることを許さない1枚があれば、そこを起点に読み始めることが可能になるかもしれない。

 

 

ふと外を見ると、いつもの私では見えない光景が見えたりしたので、人の作品を観続けていくことの影響力は確実にあると思われます。

 

  

 ◆賀来庭辰「Choregraphy by Choreography」

コレオグラフィ;振付。動画映像と写真との境界で感覚の差異を突くものらしい。

「らしい」ということで、これも読むことが叶わなかった。 

 

滞在時間が短かったかな・・・

たぶんポテンシャルはある作品だったと思うが、作品の世界観、輪郭、芯、動きを掴むのに必要な時間を満たしていなかったか。五感で掴めばと言われるかも知れないが、それが可能なのはライゾマとかチームラボの領分かと思う。過剰でなければ五感になんてきません。

  

仲間もがんばったけど難しかったの図。

  

相変わらず知覚に作用はあって、見え方に影響があります。

日常が変容してうれしいです。自分が自分でなくなる。

 

 

◆ファビアン・ハメル「Things As They」

 非常に親近感の湧くビジュアルでした。

 

日常の捉え方として、かなり身近な切り取り方で、まさにこういうシーンを「絵になる」と好んで撮っていた気がします。写真集的というか。 

 

 

ほどよくデザイン性とノイズ・ランダム性が入り乱れていて、心地よい。

それ以上の都市の話になると他の作家との相違点を掘り下げる話が必要かと思います。みんなが見えてるものとこの作家にしか見えてないものとをどう峻別すべきか。

  

◆ガブリエル・ド・ラ・シャペル「TOKYO SOLO」

外国人の方が日本の都市を的確に、鮮やかに切り取れるってどういうことだ。

やられた感が満載です。夜の東京で、客待ちのタクシーと、街・夜に降り立った所在無げな乗客とが、真っ暗な部屋に浮かんでいます。乗客はどこに行き、どこに辿り着いたものか分からず、タクシーは、夜に宙吊りのまま漂っています。

都市の夜というものを、非常に鮮やかに的確に掬い取った作品でした。見せ方も、タクシーという被写体も、とても心を打たれました。 

展示手法・機材も参考になります。真っ暗にした教室の床にライトボックス?平面ディスプレイ?を置いて発光させている。これはアリだな。

 

 ◆森本洋輔「10 YEARS AFTER」

 

2014年の写真新世紀で優秀賞を得た作品シリーズ。2006年から2017年にかけて、路上で見知らぬ女性に声をかけて撮り続けたもので、その動機が、「彼女の別れ際の表情に似ている」から。

  

いやあ旦那狂ってますなあと喜びましたが、ちょっと待ってや。「彼女の面影を未練がましく探し求めている」だけなのだろうか。

彼女の別れ際の顔とは何か。圧倒的な他人の顔である(思い出す)(ぎゃあ)(ぎゃああ)。ひいひい。

親密な関係にあった人との関係性が終わって「見知らぬ他人」 へと移行する瞬間を目の当たりにしたことで、一人の人物の間で「他人と身内との境界」が激しく揺らぐことを発見し、作者はその問いを映像によって追い求めているようだ。

 

 

ポトレを 生業にしている仲間が「この人の好み分かるわー」「分かりやすいわー」「みんな一緒だ」と激しく反応していたので、「オリジナルの”一人”から永遠に複製される人物群像」という、複製メディアの観点から読んでも面白いかもしれません。

そうか。写真新世紀で受賞した理由が分かってきた。こうしてあれこれ考えることが可能だからだ。なるほどね…可読性。

  

◆愛場大介(ジェットダイスケ)「夜想曲

やばい。

あえて最後にもってきた。

この作家の写真は「ザ・映像」だ。動画映像を静止で見せているような文体をしていて、生々しくシズル感に満ちていた。

帰路、SONY製品を価格.comでなんぼ検索したことか。いかんいかん。

  

ムキムキしている。

セミの羽化を筋肉のおこり、産毛の一本一本、複眼のつぶつぶまで全て出しきり、しかも絶妙なライティングで程よく誇張が効いている。これがJPEG撮って出しとは夢にも思わなかった。どういう技術力だ。

 

リアルすぎる蝉に包囲され、女子は避難し、男子2名で超画質に惚れ込みながら観覧を続けました。

SONY α7RⅡで撮られたこれらの作品は、カメラ界におけるSONYという刺客の存在を完璧に明らかにした。ダイスケ氏は動画で最新版α7RIIIのグリップについて「小指が余る」としきりに繰り返していたが、画質だけなら間違いなく鬼性能だ。

極端な視覚、人間の眼では見えないディテールが総立ちになって主張してくる世界は、科学的で心地が良い。いいですなあ。

 

 

( ´ - ` ) 完。