写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生&TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【映画】「アンドレイ・ルブリョフ」(1971)監督:アンドレイ・タルコフスキー

【映画】「アンドレイ・ルブリョフ」(1971)監督:アンドレイ・タルコフスキー

面白いか、と訊かれれば、面白かった。しかし「じゃあどこが」と問われれば、答に窮する。神の存在と侵略や権力の不穏さが、濃霧のように立ち込める、1400年代初頭の世界。一人のイコン画家の波乱と自戒、そして再生を見ました。

 

 

何か、深い森に数時間ずっと独りで佇んで、帰ってきたような、祈りに似た感覚がありました。

 

本作は1971年のロシア映画、舞台は15世紀初頭のモスクワ大公国。ほぼ全編を通じてモノクロ。監督は「惑星ソラリス」で有名なタルコフスキー

 

実在した修道士にしてイコン画家、アンドレイ・ルブリョフの人生を描く。ただし史実の映像化というよりも、表現や創作に生きる人間たちの生きざまが強く描かれています。

そこにあるのは、表現者・信仰者の苦難の道のり。

基本的に楽しい話はないです。

1400年のロシアに生きる修道士が、旧知の仲間と揉めたり、絵が描けなくなったり、大公と弟の権力争いに巻き込まれて人がいっぱい死んだり、沈黙の業を続けたり、そんなシーンが続きます。

日本で言うと室町幕府足利義満の頃です。当時の日露どちらもどんな時代なのか実感がないですが、一休さんが屏風を相手にとんちをかましていた丁度その頃、ロシアの雪と泥にまみれた大地では、不可視の神の威光をいかに民衆に伝えるべきか、無知なる民を巡って二人のイコン画家が議論しています。

圧倒的に暗いです。

これは作者:タルコフスキーが「映画は本格的な芸術」「私は気晴らしの映画は一本も作らなかったし、今後も決して作らない」と言っていることから、自分自身をルブリョフに重ね合わせている節が濃厚です。創作者としての苦しみを抱えながら、暗き民や権力に翻弄されつつも、真実を求めて生きていく、求道者としての人生譚です。暗いです。日本でそれをやると「映像が汚い」と県知事におこられます(平清盛)。

 

こうしたわけで、私達の生きている世界とはあまりに多くのことが違っている映画ですが、表現者のサガや、モノを創る人生の苦しみといったところは生々しいものがあり、分からないながらに観ていても感じ入るところがあるわけです。

  

ただし、ストーリーが容易に分かるというものではありませんでした。

正直、写し出されるシーン、その場における登場人物の発する台詞の意味が、分かりません。兵士にしょっぴかれたり、公開処刑にされる民の様子や、裸でかがり火を舞わせる男女の集団、度々登場する物言わぬ聖なる少女の意味など、観ていても全然分かりません。

これらは書籍タルコフスキーとルブリョフ」(落合東朗 1994年 論創社)が手元にあったので、各章のシーンが何を言っている場面かを丁寧に解読しながら追うことができたものです。

なぜ映画DVDとその評論本がセットで手元にあるのか。セットで貸し出して下さった方がいるからです。ムトーさんありがとうございます。ガチの評論が手元にないと意味が分からない映画というのは珍しいです。タルコフスキーあんたは鬼か。

 また、本作の分かりにくさは編集に起因している可能性があります。元になるシナリオが15章だったのを映画にする際に10章までカットしただけでなく、先述のようにエンターテイメント性を抑圧して再構成したことから、本来は一連の流れがあったであろうシーンが切られ、やや唐突に繋ぎ合わされています。これも本を片手に追うと補完できましたが、ノーヒントで理解するのは正直、無理です。

 

その構成ですが、DVD2枚分で前編・後編としています。

前編は、主人公ルブリョフが著名なイコン画家・フェオファンにスカウトされ、仲間の狂ったような嫉妬を受けながらも修道院を出発。このとき仲間のキリールは、事前にフェオファンを訪ねて自分を売り込んでいたにも関わらず、待ちに待った結果、若き天才と名高いルブリョフが指名されたことに大変な嫉妬と絶望をし、暴言とともに修道院を追放される。これが終盤に効いてきます。

 

こっそり出ていこうとしていたのに、皆が出てきてしまったので、引くに引けず修道院を盛大にDisるキリール。直後、懐いていた犬を棒で撲り倒す。 ひどい。

 

ちなみにこの映画が逸品なのは、第1章に謎の熱気球を宙に浮かす回があり、本編と直接は関りがなく、シュールに尽きるところです。気球の外観も気持ちが悪い。本によると、空を飛んだり何かを飛ばすという行為は、神への冒涜になるらしく、また、飛んだ後には落ちてくることから破滅の意味もあると。

更に第2章では、移動中の主人公と仲間の3人が雨宿りに集落に立ち寄り、そこで催されている旅芸人の酒宴、大公をディスる頓狂な即興歌に唖然とさせられるなど、シュールです。ここでキリールが通報して旅芸人が捕縛され、終盤に少し関わってきます。

 

 

ルブリョフ一行がウラジミールへ向かう道中、裸の男女が入り乱れる異教徒の祭に出くわし、彼らはその営みを「愛」と呼ぶなど、ルブリョフの信仰を揺るがす体験をする。

薪を拾い集めていたところから、祭りを見つけて、好奇心に負けて深入りし、軟禁されたり女性に迫られたり色々あった末、翌朝まで戻ってこなかった。おい。仮に19時頃から失踪したとすると軽く10時間は祭りです。おい。この体験がルブリョフに何かを与えます。

 

ウラジーミルに到着し、ウスペンスキー大聖堂の内部に「最後の審判」の絵を描く仕事を大公に申しつけられるも、2ヶ月経っても壁は白いまま。民衆を脅すようなおどろおどろしい絵は描きたくないとして、仕事が全く進まない。大公ブチ切れの報。それでも描けない。

以前、フェオファンと民と信仰のあり方を議論し、キリストを十字架にかけたのは無知な民衆であるが、それでも彼らの良心にとって安らぎと救いであるべきだとルブリョフは訴えていた。その思いが、「最後の審判」を決まり切ったイメージで描くことを拒絶させている。

一方で、大公とその弟の不仲、不穏な争いの気配がクローズアップされる。森の中で、騎馬隊に職人の一行が襲撃され、両眼が切り裂かれる事件が起きる。

ルブリョフらは大いに動揺する。白い聖堂の壁面に黒い塗料がぶちまけられ、不穏さと汚れが象徴される。聖書の一節を読み上げていく中で、不意に入ってきた佯狂(聖人、白痴)の少女の振る舞いから、「最後の審判」を人類への裁きではなく「祭」として再解釈することを思いつく。やったね。

 

後半は、内紛状態にあるモスクワ公国の情勢の不安定さ、権力の枷が外れた様から始まる。モスクワ大公の弟とタタール軍がウラジーミル侵攻を行い、町が焼き討ちされる。

兵士らはルブリョフのいるウスペンスキー大聖堂の扉を破り、宝物を荒らしに攻め入る。聖堂は殺戮と略奪の舞台となり、先に登場した佯狂の少女を守るために、ルブリョフは兵士を殺害する。宝物の隠し場所を言わない司祭は、沸騰したタールを口に注がれるなどの拷問を受ける。ただただ凄惨を極め、神の存在は蔑ろにされる。

この場面について、攻め入った弟公は「自分のしでかしたことの重大さにおしひしがれている」と本に書かれている。けだるそうにしていたのは罪の意識あるいは諦念だったのか。血糖値が低いだけかと思った。

カメラワークはウラジーミルの町と聖堂を攻め立て、民を殺し、焼き打つ軍勢や、壁に描かれた宗教画とを行き来する。襲撃が終わった後には、白痴の少女とルブリョフ以外は死体の山となっている。

画家フェオファンの幻影(この時は既に死去している)が現れ、ルブリョフと問答を交わす。ルブリョフは、絵を捨てると言い放つ。

殺人の罪への罰として、ルブリョフは沈黙の行に入ることを決意する。殺人は最高位の罪である。教会の中に雪が舞い、ルブリョフのみならず、傷つき続けてきたロシアの地への癒しが与えられたかのように映る。

 

最終章は、鐘づくりの職人の息子ボリースカが、大公の命じる鐘作りに自分を売り込み、苦労の連続の末に大仕事を完遂させる。彼はまだ子供の年齢であるが、はるかに年長の職人らに声を上げ続け、大公の使いにも材料をけちるなと声を荒げ、困難な仕事を精力的に進めていく。

 

鐘が仕上がり、打ち鳴らすその日が来た。紐で引かれて鐘が持ち上がってゆくにつれ、ボリースカは無口になり、圧倒的なプレッシャーに潰れそうになり、足が立たなくなる。無事に鐘が鳴り響くと、地面に倒れ込む。

その姿を見届けたルブリョフは、長きに亘って続けてきた沈黙の行(「襲撃 1408年」から、この「鐘 1423年」の間、ずっと沈黙していたとすると、15年間にも及ぶ)を破り、「お前は鐘を造り、私はイコンを描く」と抱き締めて声をかけ続ける。

 

この章だけは創造、創作というテーマが強く通っていて、他のパートとは別物の趣がある。主役のポジションはボリースカに移され、狂ったような情熱で鐘の鋳造のための粘土探しに奔走し、職人らを指揮して張りつめ続けているに姿に焦点が当たり、ルブリョフは脇に引いている。

しかし途中には、かつて嫉妬から離反した旧知の修道士仲間・キリールとの数十年ぶりの邂逅がある。筆を折り、沈黙を続けるルブリョフに対し、キリールの赤裸々な罪の告白と「神はお前に才能を与えた」「神から与えられた才能を無駄にするな」との全力の説得があるが、ルブリョフは沈黙を破らない。

人生で恐らく一番本音で語りかけている旧知の仲間キリール。にも拘わらず、ルブリョフは沈黙を破らない。貴乃花親方かよ。

それが、ボリースカの鐘の仕事、創造の完遂を目の当たりにして、堰を切ったように喋り始める。

これは、天才は天才同士でしか魂の会話ができない、という基本原則が如実に出たのかもしれない。あまりに高く、深すぎる創造性を有する者は、分かり合える者同士としか本音の言葉を交わさないというもので、世界を代表するクリエイターやアーティストの密着ドキュメンタリー映像でしばしば目にする光景です。あれ怖いんですよね。じゃあ俺たち平民は犬か猫かお付きの事務員か、と一抹の悲しさを覚える例のあれです。

しかし、「もし鐘が鳴らなかったら、作り手たちは大公様に処刑されるのだ」とオーディエンスに好き勝手に言われ、けれども実際そうで多分殺されるわけで、文字通り命を削り続けるプレッシャーの中で、ボリースカは鐘プロジェクトを完遂させているわけです。

これはルブリョフも同じで、イコン画を求められるクオリティと納期で完成させないと露の命。そんな二人だから何か共鳴した。これはタルコフスキーの映画製作に懸ける信念と、その作品評価に当たって自国の国家映画委員会(ゴスキノ)からさんざん妨害された経験などに色々と思いがあるのではなかろうか。

 

肺に水が溜まりそうな重圧、キリスト教の重みとつらみが濃縮されていて、少々むせかえります。

私自身が「神」に対して、あまりにサブカル的な感性しか持ち合わせていないため、いまいち「神」の重みが分からない人生を送っています。映画という映像表現によって、ようやく事の深刻さが少しだけ伝わってきた気がしました。

キリストが復活して「最後の審判」が始まると、全人類がふるいにかけられてHell or Heavenです。エヴァの最後の回みたいに人類が強制的にどうかなるらしいので、こわいですね。

 

良い映画でした。この濃厚な世界に触発されてしまったので、アレクセイ・ゲルマンアレハンドロ・ホドロフスキーの作品も振り返ってみようと思います。私の中で三大A作家です。3ア。

 

完。