写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生&TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【ART】「小磯良平と吉原治良」展@兵庫県立美術館

【ART】「小磯良平吉原治良」展@兵庫県立美術館

尖った企画だ。展示タイトルが二人の作家名だけという、限られた客層に照準を定めている。このタイトルだけでピンとくる人はけっこうな美術ファンです。

 

最近よく新聞やWebでこの展示について触れられていたので、これは何かあるなと思い、観に行きました。 具体ではなく吉原治良という扱いなのが、何やら面白そうだ。

結論としては、美術に関心がある人、特に美術史を学んでいる人には、20世紀という時代のうねりの中で、二人の日本人作家がどのような模索を重ねたかがよく分かり、面白いです。

 

 なぜこの二人なのか。

∴二人とも同世代の、関西の作家。

存命期間ですが、小磯良平は1903~1988年、吉原治良が1905~1972年と、ほぼ同世代です。時代もさることながら、活動拠点も神戸・阪神間と共通しています。

しかし作家人生としては対照的です。小磯は、東京美術学校東京芸大の前身)を首席で出て、2年間フランス留学し、具象絵画、肖像画(主に美人なお姉さん)や群像画を極め、戦中は従軍画家としても活躍しました。対して、吉原は関西学院高等商業学部卒、ほぼ独学で展示を行い、藤田嗣治に認められ、抽象絵画を極め、世界的に有名な「具体美術協会」を結成します。

 

本展示は、そんな対照的な二人の生涯を時系列で、全5章の時代区分において並列展示するという企画です。

二人とも勉強熱心だったのか、様々な表現スタイルの模索があり、海外の美術動向の影響がもろに反映されています。そして二人とも技術力が物凄く高いため、受けた影響をはっきりと作品に反映させ、オリジナリティを出すための試行錯誤がにじんでおり、たいへん面白いです。

また、太平洋戦争という大きな出来事を生きた世代であるがゆえに、戦中・敗戦直後・戦後における時代・社会の要請が作家に与えた影響を見ることができます。苦しみも露わになります。これらの果てに、最終フロアでは晩年、二人の作家がどのような表現に辿り着いたかが示されます。表現を志し、表現に生きた人間が、どこに行き着いたのか。二人分の人生を一斉に駆け抜け、長いドキュメンタリー映画を観続けたような感覚でした。

ボリュームは満点でした。

 

以下気になった点をメモ列挙。体系的まとめはしません。

 

小磯良平 

 西洋画の高度な技術で女性めっちゃ描くよ。写真みたいな作品があるよ。戦争画も描くよ。戦争に加担したことをめっちゃ悔いるよ。戦後は抽象絵画を取り入れるよ。けどモデルの顔は抽象化しないよ。

驚異的に技術力が高く、非常に有名な作品「T嬢の娘」(1926)が、23歳の作品です。白い和装の女性が、一人用の白いソファに腰かけて、両肘をひじ掛けにしっかりと乗せて上体を開き、帯の下で指を組んで、窓の外を見やっている。これが、すごく良いです。

透明な空気感と、僅かばかりの憂い。モデルの女性が、そこに佇んでいて、作家の存在はその背後に回り込み、モデルの存在感を黒子となって支持する。モデルは何を思うのか。そこには「描いた」感がなく、一人の女性が「いる」のです。素晴らしい。

師匠の藤島武二の「黒扇」の西欧の濃厚な香りが強くむらむらしているのもドキドキして好きですが、「T嬢の娘」は真逆、爽やかなアンニュイさ、現代的、和風で、師匠とは違った魅力を誇ります。ずっと観ていたい逸品です。

昨今のインスタ・ガチ勢のやりたいことの神髄が、この一枚の絵に全て凝縮されてるんじゃないかと気付かされました。圧倒的でした。

 

一方でもう一点の、同時期に描かれた「和装夫人」(1926)(同じモデルの和装女性)は、上記作品と対比させるために構想されたものと考えられます。黒~紺の装いで、こげ茶のソファに身を窮屈そうに押し込め、上体を屈めて膝の上で手を組み、全体的に丸く縮こまっています。顔も若干下を向いて影がさし、せっかくの着物の帯も全く見えない。モデルに強いるにしては不思議なポーズです。

「彼の休息」(1927)も、絵画としては不思議なポーズです。レッズだかアントラーズを思わせるサポーター風の服装の男子がソファーにだらりと腰かけ、ハンカチを手に、赤いスリッパを足にし、脱力した表情でぼんやりしており、なんでこんな妙な人物絵を描いたのか、不思議です。

こうした、日常の何気ない瞬間のような、意図的に指示してデッサンするには不自然なポージングを描いています。むしろ写真の機動性の領分のような作品です。この時代の人物画でそういうスナップ風のが流行っていたんでしょうか。個人的に学びが必要です。

 

さて、ヨーロッパから帰国した後の1934年頃の作品からは、背景、服装、肌の描き方がぬらぬらと溶け出し、細部の描き込みが抽象化されます。間違いなく現地で印象派フォーヴィスムを学んだと思われます。

目録と現物とでタッチが全然違うのですが、現物はどの絵も暗めで、絵画としての塗りが抑えられているように見えました。

「物語る男」(1937)、「娘達」(1938)でのモデルの横顔や人物の重なり合う様子は、斬新な構図のスピード感があります。モデルを配置し、デッサンして描き込むというより、重なった瞬間をパッと押さえた、新興写真の如き勢いの良さを感じます。

 

そのように、小磯良平の絵画には、これって絵画?というものが散見され、どちらかというと写真に近い描画やフレーミングを感じました。

「洋裁する女達」(1939)の、画面の大胆な断ち切り方もその一つ。左側のピンクの女性が腕、頭から顔半分が切れていて、右上の女性も作業をしている手元から先が切れています。

モデルデッサンでこれを描くのは困難というか、予期せぬ瞬間の生み出し方が、非常に写真的だなと感じます。

「肖像」(1940)も、リアルにしっかり描写されているのだが、描き方の冷たさ、平面的というか客観的なツヤツヤとした描き方はどこか、絵画としては不気味で、むしろ写真的です。モデルに表情がなく、パンフォーカスで、背景が理路整然と幾何学的に処理され、いかなる情緒も感じさせない。筆致の残し方が写真の粒子のノイズに近く、中判とか大判でびしっと撮った人物写真のようです。

 

余談ですが、世界でカラーフィルムが開発されたのは1936年、イーストマン・コダック社とアグファ社から。日本においては1940年に現コニカミノルタから、1948年に富士フイルムから発売。

カラー写真が新聞や雑誌などの報道メディアにおいて活用された時期がちょっと不明ですが、少なくとも終戦後しばらくは、白黒写真だった。となると、カラーで映像を伝える手段としては、絵画が当時唯一のメディアだったということになります。

戦時中、小磯は計4回従軍し、中国やジャワなどで戦争記録画を描きました。図録では多数の写真を床にちりばめながらあぐらをかいて筆を握る小磯の写真が掲載されており、やはりカラー映像を伝える唯一の手法として、写真を素材(下絵)にして絵画の形を用いていたことが分かります。

なお、戦争画というと戦意を高揚させ、国家の方針を全面的に肯定する類の活動を想像しますが、小磯の絵画はあくまで記録的で、まさに報道、記録写真の代わりに絵画を用いていたことが、その視座とタッチからよく分かります。

つまり小磯の作品は、写真と切っても切り離せない関係にあったのではないか。印象派以降の絵画動向をチェックしながらも、写真という新興メディアと、絵画という従来手法の融合を模索していたのではないか。そう感じました。(事実は分かりません)

 

なお、ご本人は戦争に加担したことを非常に悔やんだとのことですが、兵士や軍を美化せず、状況を描く冷静な視座は、非常にカメラ的であり、加担なんてしてないから自分を責めないでくださいと言ってあげたいです。合掌。

 

晩年に近づくにつれ作品の勢い、ハリ、色、艶が薄れて脱力しているように感じ、終戦までが面白かったです。

 

 

吉原治良

小磯良平と正反対なのが吉原です。 

小磯は若くして技術も世界観もかなり形を成していて、ある種完成されています。そして老齢に近づくにつれてテンションがほどけてゆく。

しかし吉原治良は逆に、若いころはやりたい事と出来る事が多すぎて、それらを高度に実現できてしまうものの、全体としてはバラバラな実験のようであった。それが中年以降、絵画というフォーマットを超克し、ついには極限の弛緩とテンションを有した世界:「円」へと辿り着き、作者の世界のアルファとオメガが結ばれる。

このダイナミズムは本当に感動しました。 

 

( ・_ ;) 抽象絵画で感動することってなかなかないのだが、

 

小磯良平という、ある種非常にスタンダードな画家の一生と対比して見せられたときに、吉原治良という怪物の力、そして一人の作家としての試行錯誤と限界突破をまざまざと感じました。

いやあ。具体美術協会のリーダーという面ばかりが強調されていたので、ここまでがっつり「絵画」に向き合っていたとは知らなかった。

 

ちなみに吉原治良の有名なエピソードとして、後に結成する「具体美術協会」(1954年)のメンバーに対して「人の真似をするな」と、オリジナリティの徹底を求めたことが知られています。

その元となったのが、吉原自身が24歳の時、藤田嗣治に作品を見てもらった際に「色んな作家の影響受けすぎ」「人の真似をするな」と手厳しい評価を受けたことが、生涯生き続けていたということです。これも初めて知りました。

魂は受け継がれるものなのですね。皆さんも出来るだけ早い時期に、よい師匠・よいライバルに出会いましょう。

 

さて吉原治良の作品の変遷ですが、超簡単にすると以下です。

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□20代:

 ・実家の油脂メーカー工場長として勤務しつつ、工場内にアトリエ(おい、) 

 ・なんでも描く(古典・スタンダード、フォーヴィスム、印象、シュールetc)

 →藤田嗣治「コラー」「人の真似するなー」「留学しなさい」

 →「お父さん、彼を留学させるべきです」→実家の理解得られず。残念。 

 →魚をめっちゃ描く →海辺、青空、砂浜をバックに静物や花、人物を配置し、絵本のようなやさしいタッチでシュールな異世界を描く

 →風景がより記号化され、抽象的デザインに近づく

□30代:

 ・抽象化が一気に進行、直線と曲線と塗り分けで回路図のような絵画を描く。ここでもダダや抽象絵画の色んな影響がある。

 →国「コラー」「戦時中に抽象絵画とか不謹慎じゃー」

 →大人の配慮でタッチ変更

□40代:

 ・終戦で哀しみ →もっぺん抽象絵画、オールオーバー

□50代:

 ・「具体美術協会」結成。若いメンバーの勢い、NYでの展示のプレッシャー等

 →リーダーとして、作家としての苦しみ →限界突破

 →絵画の様式を辛うじて保っているが、塗られた素材、塗り方などに比重がおかれ、「絵画」のフォーマット自体を自律起動させ始める

□60代:

 →「円」に到達。画面の凹凸がなくなり、平面に。 →急逝。合掌。

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吉原作品は、非常に明るくてのびのびしていますね。若いころの、シュールめいた、魚や漁労仕事道具を合わせた作品も、底抜けに明るい。

西洋と違って、キリスト教の世界観から自由であることに加え、やはり吉原製油のぼっちゃん、金銭的に豊かであったことは大きな要因かもしれません。底抜けに良い人だなと一目で分かる明るい画風です。青年の苦悩とか生活の苦しみが全くない。

 

20代後半~30代にかけての抽象絵画の勢いがとても好きで、多元的宇宙がいくつも平面状にゆらいでいるような、絵画の形をした数学ですかね、単なる感性で描けるものではないです。思考の切れ味が気持ちいい。

〇やЖのような、記号とも抽象化ともつかぬものが描かれた作品は、自身が工場勤務であったことや、当時の社会のモダニズム=工業化、都市化といった世界観とリンクしていると思われます。さらに、バウハウスの影響も日本に入ってきていたとしたら、この知的な洗練に一役買っていることでしょう。

これら1930年代半ばの、バリバリの抽象絵画で表したかったものが何だったか、図録の解説には特に言及がありません。

円形、楕円や、集中線の強弱、斜線のリズム感などが目立つほか、球体のようなものの白黒の塗り分け、傾き、グラデーションなど、物体というものが存在していることを重力や力の向きなど物理的な面から絵画に書き起こしたようにも見えます。

存在、運動の記述という観点は、1920~30年代の日本がかなり物理科学において盛り上がりを見せていたことと関連があるかも知れません。その頃、湯川秀樹朝永振一郎が活躍し、仁科芳雄量子力学を日本に持ち帰るなど、大きな動きがあったようです。

優れたアーティストは、社会の最新の動向に感化され、自己のテーマに絶えず取り込もうと模索するものです。

 

この時に多数描かれていた円形、楕円、傾いた図形や集中線、直線の配列などは、あくまでキャンバスの中に留まる形で、きちんと収められています。まるで観測器の中で粒子の動きを記録したかのように、フォーマットの矩形が絶対的な境界線となっています。運動は、四角形の中からは出なかった。

それが、戦後の作品では、フォーマットを超克します。

オールオーバーを更に超えて、塗り付けられた塗料自体が予期せぬ動きに満ちており、作者が塗ったのか風雨に曝されて塗料が飛び散ったり弾けたり垂れたりしたのか分からないような力が溢れ、「絵画」自体が動き出しています。

なおかつ、アメリカのアーティストのような、理知的でクールな計算、戦略性は前面に出ていません。柔らかさが過分にあって、それが「現代アート」「抽象絵画」ともまた違ったニュアンスを生み、ジャンルの固定化を拒む作用を及ぼしているように感じます。名前のつけようがない。

 

こうしたことは、図録を眺めていても分かりません。なぜなら実物の絵画は、大きさもさることながら、質感が実に多彩、非常に立体的で、凹凸が激しいのです。盛り上がり、塗料の流れの向き、照明の落とす陰影などが、空間彫刻とでも呼ぶべきダイナミックな視界を与えます。一歩ずつ進むたびに、表情を変化させます。

1960年代の作品は最高です。漆黒と、白く光る絵具の塊、紅い線の走り、滴る黒、弧を描く白。それが広いフロアに並んでいます。魔界に踏み込んだ感がありました。

模索を続けて駆け抜けてきた作者が、最後に辿り着くのが「円」であることが、ドラマとしても素晴らしく、また映像体験としても、完璧でした。

 

この世で、表現を志す者は皆、自らの手でこの世の真理に触れ、その手で拓いたアルファを、最果てのオメガと結びたいと願っています。しかし死ぬまでにそれを成し得る者は、数えるほどしかいないのでしょう。吉原治良はそれを果たした稀有な人物でした。

 

 面白かった。

 ( ´ -`) 単なる恋文のようなメモで締め括ります。 また観に行きたい。

 

 完。