写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生&TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【ART】「トラベラー まだ見ぬ地を踏むために」開館40周年記念展 @国立国際美術館(第一部)

【ART】「トラベラー まだ見ぬ地を踏むために」開館40周年記念展 @国立国際美術館(第一部)

 

 

H30.3/22(木)

 

ダンディなおっさんのフーフーが目印です。フーフーしてもらえるわけではないです。おっさんの目はなまめかしく、フー。魅力的ですが フー。要点はそこではないです。フー。

 

 

国立国際美術館がこれまで収蔵してきた作品+貸与分によって見せる、美術館と時代との関わり方を示す展示である。「集積」や「堆積」をキーワードとして作品を選定した2部構成となっており、図録によると

第一部(地下3階)は、「多層の海」――「時間や歴史、記憶という多層化したレイヤーから私たちの社会の姿を浮かび上がらせる作家の作品を展示する」、

第二部(地下2階)は、「時をつかまえる」――「これから積み重ねていく美術館の未来の姿、将来の可能性を探求する」、

が、それぞれテーマとなっている。

 

 

 

以下は私見メモ。

 

 

<全体について>

ぶっちゃけ全て「現代美術」なので、「見て」「感じて」分かるものではない。何かしら持ち合わせている知識や文脈を活発に動員しないと、その作品と対話が出来ない。残念ながら頑張ってもまるで分からないものもある。ただし図録などで基礎知識を仕入れることで、対話のきっかけは手に入るようになっている。

 

第一部は写真や動画、音声など動的なメディアが多く、語られているのが時間、歴史、記憶といったテーマであり、ここ最近の美術館やアートイベントでは頻出のテーマであるため、とっつきやすい。伝え方も、物語を紡ぐ、演出することに力点が置かれ、第二部の60~70年代のパフォーマンスに比べると、手法としてかなり洗練されていることを実感した。

写真をやっている人は、畠山直哉アンダーグラウンド」9点、米田知子「熱」「壁紙」7点、ボリス・ミハイロフ「Look at me, I look at water・・・」シリーズ7点があるので、観に行って損はないです。

 

第二部は、戦後日本における前衛芸術、パフォーマンスの記録が多い。この60~70年代のやっていることは、わりと意味が分からない。恐らく、旧来の美術界あるいは日本という国における価値体系を一度ゼロ化するための、問い直しを行っているのだが、作者らは体を張って日常生活と地続きのところで石を振り回したり、床の畳に液体を流したりと、剥き出しの「行為」によってちゃぶ台をひっくり返してみせるので、物語もへったくれもなく、「いや、唐突にそんなことされても困る」感がある。まさしくハプニング。(私は彼らのムーブメントが終わったずっと後に生まれているので、当時の熱狂が分からないのだ。)

物理的には復興し、高度成長へ向かう戦後の日本で、美術においてはなおも焼け野原に石や木材を積んだりまた崩したりするような問い直しの作業が、強力に模索されていたことを感じた。

一方、現代の作家の展示も多く、特に笹本晃(ささもと あき)の点数及びボリュームが大きいので、好きな人は行っておく方がよい。非常に計算されたコンセプチャルな内容だが、どこかキュートなのでハマる人はハマる。

 

これらの展示は今後の美術館運営を考えるもので、現代美術作品が動的で形のないものへと広がり続けている現状にいかに対応していくべきかを問うている。従来の美術館の役割であった静的な作品(絵画や彫刻)の収蔵の他にも、今や上記のようなパフォーマンスや空間インスタレーションといった、形のない作品が非常に多いので、それらの価値を認め、収蔵していく必要があるということを訴えている。しかし日本の美術館の46.5%は公立であり(2009年調査)、予算費目というものが存在する。

図録を読んでいると、形なき美術作品の収蔵に当たっては、その対象が幾つかのパターンに分類できるらしい。

 

①パフォーマンスの「再演」にかかる条件・指示(演じる権利)

②アーティスト自らが撮影、映像化した「映像作品」

③パフォーマンスの記録写真、映像(資料)

 

このうち①②は「作品」だが、③は「資料」であり、予算としては「作品」とは別立ての「資料購入」予算となる。そのためほとんどの美術館では資料購入の予算がなかなか認められない現状があると述べられている。

本企画では資料と作品の垣根なく展示されており、実際、鑑賞者の側からすれば、どちらも重要な「作品」として目に映る。若かりし頃の榎忠が日焼けで腹に万博マークを焼き込んで路上に立つ写真や、村上三郎が大阪のあちこちに「箱」を軽トラに載せて設置して回る写真などが、果たして「作品」なのか「資料」なのか、もはやいずれにせよ貴重なので、確かな専門機関によって収蔵、展示してもらえればそれで納税者としては納税冥利に尽きます。

※独立採算制だが国からの運営費交付金(75億円)が収入(H28年度128.4億円)の6割弱を占める。

 

美術館運営と作品のあり方という点では、本展示のメインコンテンツとなっているロバート・ラウシェンバーグ「至点」や藤井光「南蛮絵図」を見ると、作品の「保管」にかかる難しさを考えさせられる。 前者は幅・奥行が5m弱、高さ3m65㎝もある5連の自動ドアで、あまりに大きいため解体された状態で10年以上眠っていた。後者は、本美術館が所有する絵画の複製写真をめぐる演出的ドキュメンタリー映像だが、作中に登場する複製写真は収蔵庫の奥深くに保管された状態で、業者に取り出してもらうのにもかなり時間がかかったという。どれだけ電子化、クラウド化が進んでも、究極的にはブツを扱い続けていかなければならないことの難しさを感じさせられ、面白かった。

 

<個別の作品について>

以下、メモ。

 

【第一部】

畠山直哉アンダーグラウンド

2000年、氏をメジャーシーンに押し上げた、東京という大都市の知られざる地下:渋谷の地底5mに流れる人工河川を捉えたシリーズ。同時期に「JAPAN UNDERGROUND」を発表した内山英明とまるで対照的なのが面白い。2000年は都市写真ブームだったのだなあ。当時の私が都市スナップに没頭していたのも分かる気がする。

内山の写真では、地下空間の巨大構造体たちはぎらぎらと光を帯び、多くの人が思い描いてきたであろう近未来都市のSF的な姿を、光とメタリックの質感を物量によって叶えている。しかしビジュアルの美しさに針を振り切ってる分、奥行きはあまりなく、深読みは出来ない。写っている構造体の色と形状を確認するに留まる。

対して畠山の写真は、そこが都市かどうかをもはや問うていない。三脚によって立てられた照明器は周囲数mを照らし出し、足元に溜まった水が光の当たった部分を反射する。その他の周囲は全て闇なので、反射で二重になった光の部分は、まるで黒い細胞膜の中で分裂する核のように浮かび上がる。

描写は優しく、詩を語るように、直接的なことは何も言わない。照明器の向こうには果てしなく道が続いていると思われるが、その先は真っ暗か、壁に光が反射して白くなっているかであり、結論は見せてはもらえない。全ては鑑賞者に委ねられている。都市なのか、古代遺跡なのか、心象光景なのか、我々が見たいものを闇に投影するのだ。

畠山の評価の所以は、この、鑑賞者へ委ねる度量の深さであると思われる。写真で何かを撮ろうというときに、被写体で全てを語ろうとするのか、被写体と鑑賞者の間で会話させようとするのか、根本的な構造の違いを教えてくれる作品である。

 

◇米田知子「熱」「壁紙」

両シリーズとも住居の壁である。写真であることを忘れるぐらいにディテールがしっかりしていて、壁そのものように立ち上がってくる。壁紙の複製を貼っているようだ。

壁紙には暮らしの痕跡、堆積がしっかりと刻まれていて、そこで誰が、どのように暮らしてきたかを物語っている。写真によって丁寧に注意深く切り取られることで、それらは物語ることを始める。モノのままでは住居の内装の一部のまま、何かを語ることはなかっただろう。まるで「暮らし」をレントゲン撮影したように浮かび上がってくるシミ、傷、ヤケが、写されたその瞬間の「現在」と、生活の営まれてきた「過去」を同時に語る。

写真というメディアの真の表現力、可能性を改めて強く教えてくれる作品。

 

◇ボリス・ミハイロフ「Look at me, I look at water...」シリーズ

何を言ってるんだか全然わけがわからない作品。これは理屈ではない。「この男はチェリーを詰めた袋を持って立っていた」は、路上生活者みたいなおっさんが路上で血をボタボタ垂れ流しているかと思えば、チェリーを手にして、種を一か所に集めて吐き捨てているという話。「私が恐れるのは私の敵には顔がないことだ!」は、写っている被写体の女性の顔がスクラッチでかき消されていたり、目が削られて?いたり。まさに意味不明。やってることはサイコだがコミカルタッチなのが特徴。

テキストと写真は併置されていて、両方が等価なので、この文字の指し示す状況と映像が示す状況との噛み合わせの悪さを楽しむものだろう。真実がなく、リアルな虚構の周辺をぐるぐる回らされる。

 

◇藤井光「南蛮絵図」

本美術館が収蔵する15~16世紀の絵画「南蛮屏風」の原寸大の写真複製をフロアに展示し、描かれた内容を改めて確認するというドキュメント風創作映像。複製品は、1982年に写真家・奈良原一高が美術館の依頼によりポルトガルまで赴いて、リスボン国立古代美術館にて一週間かけて撮影し、1984年に展示された。

奈良原への依頼は、正確な複製品としての模写だけではなく、作家の眼から自由に南蛮屏風のパーツを捉えることも含まれていた。後者の仕事によって、中世の植民地支配の状況と、現代の状況とが完全に合致していることに藤井は気付かされ、驚嘆させられたという。奈良原がクローズアップして屏風から写し出し、「リスボンの街角でこの屏風の登場人物そっくりの人間につぎつぎに出会って驚いた」と言ったのは、支配される側である無数の非白人たちの姿であった。

奈良原は1960~80年代、かなりの期間をヨーロッパ、アメリカで旅行、生活しており、氏の写真作品では宇宙的な超時間の美が際立っているものの、実際には様々な国で人種間での支配するものとされるものとが明確に分かれる構造を目の当たりにしていても不思議ではない。ただ、氏の作品があまりに超越的で美しいので、写真家の眼の鋭さをすっかり度外視してしまっていた。本物の作家は、おそろしい存在である。

なお、このくだりは「国立国際美術館ニュース Vol.224」に藤井光がしっかりと記しておりめっちゃ面白い。

 

 

ちなみに、B3階には撮影可能エリアが設けられている。ロバート・ラウシェンバーグ大竹伸朗だ。

 

ロバート・ラウシェンバーグ「至点」

 

 

高さ365.0cm × 幅487.0cm × 奥行487.0cm という、かなり巨大な立体物。5枚の自動ドアが続いており、鑑賞者は中央の黒いラインを歩いてドアをガーッ、ガーッとくぐり抜けてゆく。

ネオダダのアーティストとして世界的に有名だが、この作品では洗練された透明感と機械の冷ややかさが際立つ。プリントが動物、機械、日用品と脈絡なく等価で、厚さも熱さも持たない「イメージ」の重ね合わせで成り立っており、ポップアートの世界観が強い。

 

 

図録にはこの作品の収蔵・展示に当たって、1979年1月に到着してから現在に至るまでの組み立てや保管の苦労が簡潔にまとめられており、一筋縄ではいかなかったようなので、ぜひ一読されたい。本展示に当たっても不調があったらしく、HPには修理と復旧のお知らせが投稿されている。デュシャン以降のアートは実に扱いが難しい。

 

 

真横から見ると、単に半透明の絵が張り付けられた自動ドアが続いているだけである。壁すらない。平面だけだ。プリントイメージの「厚み」がゼロなら、オブジェの中身も表面が続いているだけでそれも「厚み」はゼロという、表面無間地獄のような作品。しかも鑑賞者は、正面から入って一番奥まで行ったら折り返してくるよう命じられる。表面の奥へと突き破ることは許されないのだ。世界に、実体など、ない、と体感できる作品。 

 

 

大竹伸朗「時場」「時億」シリーズ

難解だが、むしろ「感じる」ことにすれば面白いかも?

 

今、blogを書く段になって想定外の事態が起きている。写真によって突き放した平面の視点になると、大竹作品は思いっきり抽象絵画に見えてきたのだった。どういうこと。キュビスムの作品のようでもあるし、もっと抽象度の高い構成的な作品にも見える。

実は肉眼では凹凸の多彩さがもっと強く、絵画のようには全く見えていなかった。作品は手紙の便箋など立体、層を持った紙を執拗に貼り合わせることで作られており、肉眼だと細かな層が折り重なり、タテヨコがぶつかってはまた重なり、絵画と建築のはざまの現象を目の当たりにしているような体感があった。

 

写真でここまで平面的になるとは驚きました。

 

これも抽象的な銅版画の腐食みたいになっているが、本来は層の段差があり、絵画が建築の方向に向かって立ち上がろうとしているような不思議さがある。前・建築である。

紙は基本的にまっすぐ切り抜かれて貼られているので、「線」が面を構成していき、線の力があまりに強いので、カンバス(絵画)の中心は解消される。代わりに、微妙な厚みによる構造が生まれ、それが新興住宅の造成のような都市めいた像となってゆく。

 

 

針金骸骨が回っていました。

 

簡単なメモで終わらせようと思ったのに、独法の財務諸表まで見てしまったりして、深入りしてしまった。

第一部の残りの作品と、第二部はまた別枠でレビューします。

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会期: 2018年1月21日(日)―5月6日(日)