写遊百珍

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【写真表現大学】H30.1/14(日)授業「作品制作」~ここからが本当の作品制作~

【写真表現大学】H30.1/14(日)授業「作品制作」~ここからが本当の作品制作~

 

あけましておめでとうございました。なんと1月も半ばです。年末年始がまだのような気分でいたのですがなんと1月も半ばです。くわあ。これはまずい。飲みすぎてるわけではない。地球の公転が早いんだ。しめ飾りって生物的で怖くないですか? 新年で浮かれてゐます。

 

 

さて写真表現大学ですが、年明け1発目の授業(※作家クラスは2発目)でした。が、修了展に向けてのっけからフルスロットルで、ここからが本当の作品制作でした。

 

修了展は、3/6(火)~3/11(日)

京都三条「同時代ギャラリー」で開催しますので、ぜひ来てください◎

 

www.dohjidai.com

 

 

今日は展示計画の1次プランを策定しましょう。

 

展示および広報に向けて、最終の絞り込みを行います。

展示直前の心構えが先生から伝えられます。

 

「この時期まで来たら、基本的には引き算だと思ってください。」

 

「作家が全てを盛り込むことは不可能です。期限というものがあります。」

 

「出来なかったことは、次の個展などで実現させてください。」

 

 

時間があればいいものが出来るか、というと、こねくり回してフィニッシュの形が全然決まらないという無間地獄に陥ることがよくあります。

職場であれば、課長などに「あれどうなってんねん」と〆られ、生煮えの超きたない資料を吐き出させられ、そんなことを何度か繰り返すうち「納期より尊いものはない」ということを学習します。するよね。泣いたりする。泣くよね。泣こうよ。しかし個人で行う表現では、締め切りという概念が忘れさられてしまいます。

 

 

 今回は合評を通じて、以下のことを決めていきました。

 

 ① 作品テーマタイトルを仮確定する

 ② 展示用作品を5点セレクトする

 ③ 告知用DMに使用する勝負作品を1枚セレクトする

 ④ ポートフォリオの候補作品をある程度セレクトする

 ⑤ 2月上旬の外部講師(飯沢耕太郎氏)の合評に参加できるか判定する

 ⑥ 以上を以って展示計画書の1次作成を行う

 

 

( ´ - ` ) 

なんせこの学校では、わずか10か月あるかないかで、2年ないしは4年やってきた他校の生徒さんとタメはれる展示が出来ないといけないので、集中力が全てです。

  

 

(※以下、タイトルは授業時点の仮のものです)

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◆岩見氏_「ぼくのめせん」~周りが変わる魔法の力かも~

家族景担当のお姉さんです。

いつの間にか段落構成がバシッと出来ていて、展開が凄く見える化されていました。おかしいな年末の授業からすごい進んでる。補講すげえな。どうなってんの。

  

全介助状態の息子さんを作者が撮り、他の家族が撮り、また本人の目線からも撮った、参加プロジェクト型の作品群です。

ある程度まとまった枚数を見せないと、息子さんと周囲の方々との関わりが示しにくいため、写真集での展開が最適との意見がありました。

 

 

作家一人によるパーソナルな知見とテクニックが生み出す映像の時代から、「眼」をシェアする時代になってきました。登場人物たちは、作者とモデルの役割を行き来しながら、フラットな関係の中で、お互いの姿を見つめ合います。ひいては、普段の人間関係を見直すことに繋がります。

機材の進歩と、SNS的公共圏の感性とが生み出す新たなスタイルだと思われます。そして、そこに貫かれているのは、母の愛情です。愛だよ愛。

 

( ´ - ` ) 愛。

 

私が言うと途端に安っぽいな、

 

 

( ´ - ` ) ふとんかぶって寝ます。

 

 

 

 

◆小川まさみ氏_「ええげに活きている」~自然と人、共生の肖像~

擬人景担当のお姉さんです。

寝てるわけにはいきません。ぜえぜえ。

「小屋は単なる風景ではない。廃屋でもない。彼らは生きている。そして愛らしい」ということを教えてくれた作品です。

普通の人は見向きもしないし、私のような廃墟・廃屋好きは「いい廃屋がある」というハンティング、コレクションの眼で見てしまいます。そして小屋を使っている当人は住宅、物置など生活の延長としているので、その表情には気付かないものです。

 

 

一歩引いて見てみると、小屋のマージナルな特性――田畑や海などの自然と、人間の営みとの境界を結ぶ装置であるという機能性と、人の手によって建てられた人工物が徐々に風化して自然に還っていくという時代性に気づかされます。小屋を見るのがたのしくなりますね。

 

 

後に調べて分かったのですが、中里和人(なかざと かつひと)氏という写真家(東京造形大・教授)が、「小屋の肖像」「こやたちのひとりごと」という、小屋の写真集を出しています。中身が分からないので断言はできませんが、中里氏も同様に、それぞれの小屋の個性と風格、歴史に対して、人格を認めて写真作品を作っておられます。

違いとしては、中里氏は、人物をバストアップでポートレイト撮影するように、1軒1軒、正面から撮っています。対して小川さんは、小屋の全身性スナップによる日常のポートレイト。ぽつんと佇んでいたり、だらしなく横たわっていたり、老骨にむちうって立ってたりします。そのへんの作家間の違いを見るのも面白いかと思います。

 

 

 

◆佐藤氏_「みえない光をすくって」~漂う時間が描くやすらぎ~

心象風景担当のお兄さんです。

作家には3通りあって、①誰もが「すごい」「きれい」「めっちゃいい」と評価する作家、②「好きです」という人と「苦手」「分からん」という人に結構分かれる作家、そして③誰からも「よく分からん」と言われたり戸惑われる作家、とがいます。

 

佐藤氏は②のタイプで、「苦手」と言う人がいる一方で、なぜか若い女子から「わたしはけっこう好きです」「私も好きです」などとうらやましいことを言われるニヒルガイです。うらやましい、けしからん。それで、センサーに赤外線を取り込み、「見えない光」を掬い取っています。

 

これによりモノクロでもカラーでもない映像世界への扉が開き、あまり他の人が立ち入ってこない、静かな聖域が確保されます。その中を作者がゆっくりと歩いているのが見えます。まあ南港ですが。大学時代私も南港あたりが好きだったのは、ほどよく世界がこちらを放置してくれている、その静寂の自由さだったのかも知れません。また行きたいな。

 

 

他の生徒さんと一線を画すポイントが、「社会性を伴わない作品であることを、サブタイトルで示す」とし、作家の自由性を担保しつつも、ロケーションはすべて大阪の湾岸部(此花区、港区)であり、「時代に翻弄されてきた土地」という社会性が強烈に効いていることです。

あの時「五輪呼ぶ」とか言ったの誰ですかね。そして次は万博。どうなるんでしょうね。そういう感じです。WTCATCのことを皆さん忘れないであげてください。なみだでまえがみえない。

 

 

 

◆岩本氏_「さえぎる風景」~ゆたかなみらいにたどりついたか~

ノイズ担当のおじさまです。

大阪ミナミ(阿倍野)の再開発において、「あべのハルカス」という異形が持ち込まれたことによる、まちの「風景」の転換について言及された作品です。

申し上げたいのは、岩本さんは近畿日本鉄道にケンカを売っているわけではなく(売っておられるのかも知れませんが、)、我々がメディアや広告等を通じて脳内に作り上げたイメージとしての「風景」と、物件が現地でどのように在るのかという物理的な状況との差異について指摘しているということです。

 

このことはアジェが写真で示したように、人間の眼、意識では捉えられないものが、写真というメディアにはうじゃうじゃと写り込んできます。そうして写し出された大阪ミナミの都市景は、ハルカスが威風堂々と胸を張ってミナミに美観をもたらす――といったイメージを軽く裏切り、ハルカスのある風景は疎外され、またハルカスが素朴な下町の風景を阻害するという、二重の「さえぎり」が起きていることが分かります。

 

なぜか最初タイトル案が『「遮る風景」~覚醒しているか~』という、活動家のアジテーションになっていたのでみんなでうろたえました。うわあ。「これ誰が覚醒するの」「観に来はったお客さんですね」「それはあかん、おしつけたらあかん、」革命闘士www 

 

 

◆松岡氏_「ひかるいのち」~ガラスの向こうの小さな命~

生命力担当のお姉さんです。 

現代の都市文明が誇る究極の映像装置、水族館からの命の眺めを特集。改めて提示されると、水族館がいかに「観る」ことに特化した施設かが分かります。動物園や植物園とは一線を画するのが、光と水とアクリルとが生み出す映像効果であり、特に最近の水族館は映像美への傾斜が強いように感じます。

 

海は我々生物種にとって生まれ故郷でありながら、ヒトにはたどり着けない場所になってしまった。都市化を推し進めてようやく手に入れた憧憬の成就、思い入れも一際深いといったところでしょうか。本来4次元ぐらいある実世界を2次元アクリル平面に落とし込んでいるのが水族館の凄いところであり、この作品を見ていると、それはもしかしてサブカルチャーに特有の、例の「スーパーフラット」に通ずるが文法があるのではないかと気付かされました。 ※作者本人は純粋に生き物のディテールを愛しています。( ´ - ` ) すんまへん。

 

展示数の上限の都合から、美しく見栄えのするカットに絞られていましたが、先生からは「このダークな作品も展示に入れよう」「松岡さんという作家の活動の幅を示すことが大切」ということで、多彩な顔触れになる予定です。

 

 

 

◆戸田氏_「二人のママのあかし」~その全てが美しい~

 今回一番手ごわい作品がきました。

友人の女性の日常生活、双子の子供、若くして二人を産んだことで崩れてしまった体の均整、失われた女性としてのプライド、深いコンプレックス、それは銭湯に入るときも、同性の前ですら体を隠さざるを得ないほどのものだったそうです。

 

我々「男性」には計り知れないプライベートな自己否定の渦中に、戸田氏は「いやそんなことないじゃないすか、あなたは生きているだけで綺麗ですよ」とはっきりと言い、同席し、撮るわけです。6年ぐらいの付き合いになる友人だからと彼は言うのですが、例えば写真仲間に私が陰茎や下腹部、気胸の手術痕を撮ってくれと頼むかと言えば、そんなことはあり得ません。だからけっこうなレゾンデートルの緊急事態なのかもしれません。

 

 

戸田氏の作品は、「あくまで被写体の女性との共同作業である」と先生は言います。本来なら女性が自撮りすることでも達成される仕事である、しかしそれを写真家に求め、あえて日常や、過去の記念写真や、自身の体を、写真家に撮らせた。そこには、他の誰にも共有できない、簡単には伝えられない心があると。

 

ゆえに「誰もがすぐ理解できてしまう形にまとめようとするのは間違い。この女性の心は、誰にも分からないのだから、この作品は分からなくてよい」と先生は指摘します。そのため、構成は大胆で、家庭内の日常景のカラースナップ、モノクロームの裸体とポートレイト、過去の写真を撮った写真の3つの要素を行き来します。

 

何気ないリビングや洗面所から、唐突にモノクロのヌードが始まり、また唐突に室内のスナップに戻り、風呂場、ヌードが来ます。荒木経惟、ナン・ゴールディンではない。石内都か、いや次のシーンは長島有里枝か、では一体誰の系譜か? 別の作者の作品を見ているような振れ幅の大きさがあります。

まとめますと、被写体の女性と作家が1対1になりモノクロームで向き合うときは、「からだのモノローグ」を作家が全面的に受け止めるという関係があり、傾聴によってメッセージを解している。しかし、家庭内のシーンは、あくまで人様の家庭であり、作家にとってはまだ外国であった。だから「くらしのクライ」(叫び、涙)の気配や堆積を聴くところにはまだ至っておらず、安全な映像――既視感のある映像で一旦はまとめられています。

 

相手さんの家庭の事情もあるので、長期滞在は出来ないでしょうし、声の堆積を聴き取ることが正義だとも健全だとも言い難いところがあり、そこは状況判断だと思います。

 

 

「皆が分からない作品というのは、何か大事な仕事をしていることの証拠です」

「皆が分からないというのは、見慣れていないということ、それは映像としてとても重要なことです」

 

珍しいパターンの締めくくりとなりました。 今後の展開に注目です。

  

 

 ◆安藤氏_「つながる関係」~群れと遊び~

グラフィカル収集担当のお姉さんです。

露天商みたいになってもうた。

テキヤのお姉さんではなく、作者です。

あんちゃんの作品は、主に都市のディスプレイの大量陳列、同じものが無数に整列している光景を切り出し、集め、再配列します。

グルスキーとは異なり、平面群のパターンを直感的に撮っているので、猥雑感があります。ナニワにふさわしくて良いのではないでしょうか。グルスキーは宗教世界の視座ですが、大阪住まいのお姉ちゃんが見るのは暮らし、商いの眼差しです。

 

しかしおぞましいです。商品、商品、商品、商品。

写真で見せられると、よくこれだけの似たような群れから1つ1つを「選択」して生活しているなあと驚きました。毎分毎秒、いい物はないか、買おうかどうか、どれを買おうか、この膨大かつ似たような陳列の中から視覚判断していることが判明。精神が疲れるわけです。小豆島に遊びに行ったとき友人が「ここに住みたい」と放心していましたが、何となく気持ちが分かりました。

 

 

 

◆小川まなみ氏_「十人十色のまなざし」~陶芸世界のポートレイト~

ゴッドチャイルド子守担当のお姉さんです。

陶芸家・東健次が一生をかけて、神話の世界からこの地上へと生み出した「子供たち」 の表情、生きて動いているさまを、3枚連作の映像の動きによって表します。

 

像は、神話世界から呼び出された方々なので、針が振り切れるぐらい強い生命力があり、その眼差しは天を射抜かんばかりに強く真っ直ぐです。空の向こうの恒星ぐらい見えてそうな気がします。彼らの存在は、若者たちに送る、東氏からの生命のエールであるとのことです。それゆえに写真を見ていて複雑な気持ちになります。私たち人類は、こんなに強くはなく、もっと邪悪で狡猾なんです、すいません。

 

日本がバブルで沸いていた時代も、バブルが弾けた後も、東氏は三重の森の中でひたすら「世界」を創造し続けていたらしいので、やはり我々俗人とは根本的に何かが異なるのかもしれません。真の理想郷を築き上げてしまわれた。 

 

写真の技術論としては、2枚でもなく4枚でもなく、3枚で微妙な視線の角度の差をつけることによって、動く表情、生きている映像としての効果が生まれました。ただしあまり視線の動きを大きくすると、連続性が途切れて別のカットになってしまうことが判明しました。

 

 

 ◆田中氏_「カフェつくり人」~場をつくり 結びあい 和をひろげる~

和の場の担当のお姉さんです。

粘り強い取材活動が光る作品です。4~5件のカフェの撮影を複数回行い、1カフェ5カットでお店と店主の特徴、雰囲気、愛を伝えます。

人が仕事をしているところを撮るのはとても難しい、それも私的なドキュメンタリーや、一方的なスナップ作品ではなく、お店の宣伝となるようなカットです。「撮ってる間ずっと喋ってます」「喋るのやめたら笑顔が途切れるんで、もう喋りっぱなしです」いやもう真似できません。しにます。

先生「取材写真は口で撮るというぐらいですから」「篠山紀信も撮るときはずっと喋ってる」 うええ。しにます。

 

 

 ◆吉川さん「咲くや庭造り」~愛と奮闘の日々~

ガーデニング担当のお姉さまです。

「A3サイズまで引き伸ばして画質に問題がないか」のテクニカルな確認です。

2Lで見ていた時と庭の印象がまるで違うのが面白かった。ガーデニングのディテールの豊富さは、やはりある程度大きい画像でないと味わえません。植物だからでしょうか。葉、幹、枝の陰影やフォルムが見えてくると、それだけ眼が離せなくなります。

 

今後スキルを上げていかれたら、機材の拡充を図るなどして、描写性能を高めることでガーデニング世界の深堀りが出来そうですね。もうシグマのQuattroで「ガーデニング界のフォビオン姉さん」と呼ばれるぐらい攻めるとか夢があります。

 

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 暴風雨のような勢いで合評が完了しました。なお上記の大半は私の私見ですが、しゃべりが苦手なので1/10も口に出してません。皆さんこれ読んで補填しといてください。ぎゃはは。

 

合評を踏まえて「展示計画書」を作成します。

 

これを元にギャラリーでの展示レイアウトを先生が練ります。生徒数がそこそこ多いのでたいへんです。相性の問題などがあります。コーディネイトをお任せにできるという点では相当楽です。あっ私もか。展示タイトル決めてない。グエー。

 

 

グエー。

 

( ´ -`)

 

<おまけ>

テーマ性とその語り方について、先人の偉業を見ます。

 

ジャーン。究極魔法アルテマ。もとい、東松照明

図書室で希少本コーナーの封印を解いてもらい、東松照明「日本」「I am a king」を解放しました。これは、

 

 

( ´ - ` ) これは、

 

 

 

( ゚ ~゚  ) 日本の死。

 

 

 

日本は死んでいたのですか・・・。

 

戦後日本とは一体・・・

 

戦争が終わった。「日本」は全滅した。国土は荒れ果て、廃墟と残骸と、細々とした産業が遺されるだけとなった。そして、アメリカ兵を中心とする多国籍の進駐軍が、アメリカ式の暮らしを営んでいた。完。

 

( ´ -`) ぎゃあああ。

 

 

※だいたいあってます。