写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生&TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【写真表現大学】H29.12/17(日)授業_ゼミ3(作品合評)

【写真表現大学】H29.12/17(日)授業_ゼミ3(作品合評)

 

ゼミです。 Woo. 

 

( ´ - ` ) 陽射しが素敵だったので遅刻しました。

   

 

ウェー。 

この世の最大級の理不尽が「陽射しが良かった」ということです、なぜなら世界そのものが作品と化す、作品を超えてしまうので、見とれてその場から離れられなくなったりします。いかんいかん。

 

そういう感じで日曜日はゼミ(2年目以降の生徒による作品制作・合評授業)の日です。

以下ログ。 

 

パンダは生きてるだけで人気がありますが、作家という種族は少々やっただけでは見てもらえないので、もっとやっていこうという話になります。

 

 

とうとう年の瀬も迫ったこの時期に、 卒業・修了展に向けて、写真を学んでいる大人たちは何をしているのでしょうか???

 

 

■楠田氏「次の停留所はコンパクトシティ

未来! コンパクト! 人類! 

いなくなる人類!!!

 

総務省が全国に通知だしてるんですよ。止まんないぜコンパクト。

 

楠田氏、9ヵ月に及んだ三重県松阪市での滞在もいよいよ終わるらしく、松阪市コンパクトシティ化をとらえた日常光景について、構成の検討に入ります。

モノクロでガチッと締めた近未来光景の描写から、落ち着いたカラーで全て再出力されたことで、それぞれの写真が持つ訴えかけが分類できるようになりました。

 

 

(分類)

①主題オブジェあり ②平面のみ構成 ③均質な俯瞰(風景的)

 

このうち①を特集:その土地の過去を語る者 / いずれ朽ち果ててしまう未来を予感させる者、として特集する作戦(モノを語り部とした、ソフトなドキュメンタリーに)。

 

写真だけでは作者の思い、松阪滞在の体験が伝わりにくいので、それぞれの光景についてエッセイを書くことと、一枚ずつの額装展示だけでなく、撮りためた写真を簡易な写真集で展開することが提案されました。

 

 

浮かび上がるのは人類不在の限界都市・・・。 

 

 

■鷹岡氏:「ART INTERNATIONAL ZURICH 2017」出品報告

枯れゆく花を出窓の自然光で撮り続ける作家・たかおかさんからは、先日チューリッヒで開催されたアートフェアへの出品の状況が報告されました。(組んでいるギャラリーさんが出品してくれる)

  

次回のフェアでもぜひ出品をとリクエストがあったそうです。いいなあ。そのように声のかかる存在になりたいものです。まさに作家活動の鑑。

 

 

現地の展示のようす。額が金色に光っていますね。木製フレームで絵画調を意識。お客さんからは額のセンスや写真の配列が高評価だったとのこと。

 

 

 次の展開の思案どころとして、これまでフィルム撮影してきた花シリーズをデジカメで撮影&出力していくことについて、やはりデジタルの描画は従来のフィルムとは別物なので、額装から見直した方が良いのでは? とご本人。

 

これに対し先生「あまりフィルムかどうかはこだわらなくていい」、生徒「しかしフィルムで撮られた作品とはやはり違う」「色の乗りが・・・」 たしかにそうです、フィルムには謎の奥行き感があります。デジタルは鮮やかに引き締まった世界になるが、色の豊かさと奥行き感が犠牲になります。全く別のメディアと言ってもよいぐらい。

 

→解決策として「RAW現像時に可能な限りフィルム仕上げをイメージして仕上げていく」。

今思ったのですがVSCO(ヴィスコ)のフィルムセット・プラグインをとりあえず1セット(59ドル)で買えば粒子感とか色の曖昧さは再現できるかもしれません。しかしフィルム特有の奥行きのあるとろみ感がちゃんと出るかは不明です。ただただドットを打って粒子感を演出しているだけかもしれないいし、Nikコレクションプラグと何が違うかも不明です。なかなか提案しづらい。。

 

先生「あの(例の)(超有名な)(スナップの神)ブレッソンは、プリントをガスマンという専門の職人に任せていた。写真はその時代時代で使える機材が変わるものだから、時代に合わせてデジタルで撮っていけばよい」。フィルムで撮影、作品制作することが困難な状況もあるようです。

「この作品はコンセプトの仕事。プリントはガスマン的な存在(=レタッチと印刷に詳しい人)に任せてはどうか」 

餅は餅屋作戦。 

  

初めて初期の作品を見ました。たかおかさんが花に専念される前のものです。ブツのアブストラクトな表面の質感と、自然光とのせめぎあいに注目しておられる。私も「表面」が大好きで、光と影という究極の表面(質量がなく、厚みが存在しない)には魅せられています。そのせいで遅刻しました。

 

空き瓶が並んで佇んでいる写真があり、モランディを写真にしたみたいな世界だなと思ったら、モランディだということでした。モランディがお好きだったようで、家に大量の空き瓶があり、埃を蓄積させているとのことです。さすがです、一層ファンになりました。こういう文化的な持ち主の下で飲まれた飲料の余生は幸せですね。

空き瓶は世間的には「ゴミ」と認知されており、空き瓶好きの方々はゴミをあえて収集していることの意味を説明しなければならないといった 理不尽な面倒くささに直面するためか、だいたい高確率で素性を隠している傾向があります。ダイバーシティがひろがるといいなあと思いました。

 

( ´ - ` ) diverse.

 

 

 

■楠さん「日本の風景 雨溝の生態学

 都市の原型を形作る雨溝を特集する作品。前回激しくブレストして構想したタイトルですが、磨き上げが行われました。

 

「”の”が多すぎる」などのこだわりがあり、

 

前後を変えるとか

 

しかし名詞である以上「の」が取れない・・・

 

しばし「の」を切除するための議論。

 

 

先生「固有名詞にして”雨溝生態学にしたらどう」

 

出ました、必殺技・固有名詞。

作家独自の学術ジャンルにしてしまうという技です。これは熱い展開がきた。表現を手掛ける者が夢見ること、それは自分だけの名詞を持つこと。舞台に立てるプロレス選手の必須要件は、おそらく自分だけの技を持つことだと思いますが、文筆家、写真作家も同じではないでしょうか。「論文かかなあかんで」あっ。「かんたんな日本語で」「梅棹忠夫ぽく」あっあっ。「梅棹さんは書けるものはひらがなで書きなさいといつも言わはるねん」あっあっあっ。秒でハードルが上がり、よそ見をしていたら試練が何段か積まれていました。テキストがんばってください(他人事)

 

 

 

■わたし「仮想繁殖 -戯れと暮らしのはざまで-」 

 「自我を梅田に吸収されてしまった人」と形容されることの多い私ですが、だいたいあっています。そんな私の最近の取り組みはといいますと、

 

( ´ - ` ) がん細胞。

相変わらず並べてみるとなかなか異様ですね。

なんだこの写真群は。

 

奈良原一高とウォーカー・エヴァンズを真面目に読んでただけなんですが、困った。

宇宙線をたっぷり浴びせた組織がごりごりとがん化して発育するような、元気のある感じでやっています。都市生活者はみんなこんな感じでしょう? と言いたいところです。が、都市に生きる同世代の皆さんは、こういう感じでは生きておられませんで、まあキャリア形成とか子育てとか倫理・道徳の遵守とかでよろしくやってるみたいですね。困ったな。一体これは何のドキュメンタリーなんだ。

 

 

去年はまだ初々しさというか、ぎこちなさというか、かわいらしさがあったように思います。

分かりやすかったよね。たぶん。

 

 

(参考:去年の今頃)

 

( ´ - ` ) 、

 

 

去年もたいがいやな。

 

 

たいがいです。

そないにSFが好きだったはずはないんですが。

 

 写真やアートの文脈から語ることは難しいかもしれませんが、少なくとも昨年の作品については、ゲームの文脈から語ることができます。今ひさしぶりに見たのですが、もう、どこのゲームから来た方々かハッキリわかりました。驚きましたね、フレーミングとかまさにそれ。私は写真作品を制作しているつもりが、架空のゲームを作っていたのです。

 

 

しかし今年度の作品は、色んな作家の世界に染まったことで、カオスが深まったため、写されたヴィジュアルの由来をゲームだけに求めることは難しい状況になっています。経年比較は重要ですね。

 

現在の進捗。都市のパーツ(通勤や買い物など都市生活の核)と、寝室の布団(都市生活のオフの場)というダブルテーマに取り組み中。

守備範囲を拡張したことにより、根底にあるものが何なのかより一層混迷を深める事態に。もはやサブカルですらないのかも知れません。それを言っちゃあおしめえよ。あうあ。 

 

 

冗談抜きで私の作品群の展開は難しい。

最近私は色々な写真展や写真家について、文章をつらつら書くことをやっていますが、どうしても自分のことは文章にできない。というか、しようとも思わなかった。だめです。そぐわない。

 

【作品】生命感 @自宅の寝室

 

【作品】生命感 @自宅の寝室

 

自分自身を論じる――有効か否か。否っぽいなあ。「都市のなんちゃらがどうのこうの」とか「作家の〇〇の系譜が△△の影響と××してどうのこうの」などと懸命に論じたところで、批評ではなく、牽強付会の香りがします。自己弁護になるというか。自分が知ってるサイズのフレームの中に、せっかくの未知の奇怪なものを押し込めてしまう気がして。本能が筆をとることを拒否しています。私はモンスター達と仲良くしたいだけなんですね多分。

 

 

先生「今は3足のわらじの時代。写真家は写真だけやればいいという時代ではない」「仕事と、写真と、批評の3つをやっていけばいい」メディアミックスの重要性の話となり、「作家は重層化、多層化することが必要」との指摘がありました。

 

そう、現代や都市といったものは、重層的・多層的なもので、一方向からの視線によって被写体とすることには無理があります。断片の集積で語るか、コラージュか、争点を絞り込むか、曖昧さを確保して読解の複層化を図るか、

 

 

先生「東松照明やな」

 

 

私 「 /(^o^)\ えっ。

 

 

先生「東松照明には、都市をテーマにした作品がある。この図書館には希少本も揃っているから、それを年末年始で読み込んでから作品タイトルやセレクションを考えたらいい。」

 

まさかの打開策。

重層的・多層的なものを相手に戦うには――

その道の専門家を呼んで来ればよいという作戦。

しかし東松照明、このお人は名実ともに現代写真のレジェンド。

 

 

正直言いますと東松氏はビッグネームすぎる上に、写真の特異性ゆえに手ごわく、本格的に読解したことはなかった…。

何が手ごわいか。絵柄を見ていても普通過ぎて、何が東松氏を稀代の写真家たらしめているかがよく分からないという点でしょう。逆に、写真の読み方が分かってくると、一気にその功績の恐ろしさを知るので、迂闊に近づかないでおこうという謎の防衛機制が働きます。伊藤俊治あたりが寄稿する膨大なテキストを読むのがだるくて死ぬといったことも要因にあります。

 

東松照明の写真は一枚一枚がものすごく普通で、非・決定的瞬間、脱・リアリズムの写真、とかってに読んでます。また逆にアート、フォトジェニックなものでもなく、装飾や誇張がない。それでいて構図は恐らくこれ以上の秒はないという瞬間のもので、しかしその立ち位置には正義も悪もない。とてもフラットな目で淡々と織られていくドキュメンタリーです。実直な感想を書いてみましたがよくわかりませんね。皆様に伝わるように書けるには修業がいります。

 

しかし、後の時代の「社会的風景」以降の作家らのような、突き放した距離からのパンフォーカスなどはしない。もっと付かず離れずの距離で寄り添っている。また、作品1枚ずつを凝視していても見えない。それらの写真が集まって写真群となったときに、初めて、彼の言おうとしているテーマの大きな像が、姿を徐々に表し始めてくる…というものです。「地球は丸い太陽系の天体である」と言うために、夕・夜・朝の星空を淡々と撮り続けている感じ。絶対に直接言わない。

 

 

先生曰く「東松さんは時代や社会に寄り添うことができる作家」とのことで、そのあたりの、世界との向き合い方、日本の都市に対して何を感じ、何を訴えたかを押さえていくこととします…。もし都市の抱える本質が今も昔も共通しているならいい感じに突破口が見つかることでしょう。

 

 

 

【作品】疑似生命 @職場

 

【作品】疑似生命 @職場 

 

もう街の中で通行人や都市景を通常にスナップしていても、都市生活のコンテンポラリーな状況は記述できないだろうことを痛感しています。森山大道がいまだに評価され続けているのは、それは彼が60~70年代に写真表現の一つの「最果て」を切り拓いた功績があり、その独壇場=ブランドで作品を発信しているためです。謎にエロスも押さえていて、手塚治虫的なものを感じます。

 

東松照明とは一体何者なのか。同じVIVOの一員でも奈良原一高とは全く異なります。近代写真から現代写真への架け橋となった作家・・・ 手ごわいが楽しみです。

 

 

完。