写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生&TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【写真表現大学】H29.11/19(日)_授業:ゼミ3(作品合評)

【写真表現大学】H29.11/19(日)_授業:ゼミ3(作品合評)

 

写真とは悲しいもので、本質的には複製技術であり、しかも作業の下請け化(デジタル処理)があまりに進化したので、これは作品ですと主張しても「ああ、その機体でシャッター押せばそうなるよね」という話が多うございます。みなさんお手元の写真はいかがですか?

写真を撮ってるのか機械に使われてるのかよく分からない、そんな時代に、写真をするなら一定の戦いが必要になります。押したら撮れる。その先にあるものは、何か。どこの優秀なAIにも理解できない、わけのわからんものと向き合いたいものです。戦いです。 しんどいな。

 

戦いはしんどい。されどみんな生きている。

 

戦いはしんどい。しんどい上に、勝っても負けても年収が倍増するわけでもない。有村架純と付き合えるわけでもない。不毛ですね。有村(姉)と友達になれるわけでもない。不毛だ。不毛ですよ。有村藍里が予測変換で出ませんでした。妹は予測で出ます。格差か。姉がけっこう好きです。友達になりたい。闇がある。いいよね。闇はいいぞ。良いんだが色々しんどい。有村(姉)のせいではない。しんどいのは生きること全般。しんどいね。しんどいから戦いたくはない。ないんですが、戦わないと居場所がなくなるのは人の世の常で、カブトムシもカナブンもだいたい戦って樹液をなめている。ヒトが節足動物に負けてたら地球退場です。そういうわけで、「なぜ私は写真によって作品を世に問うのか」を戦えるよう、表大の「ゼミ」に通っています。なんてこった。

 

 

思うに表現とは呪いのようなもので、理由は無いけれど、それをしないと生きている実感が湧かないという、魂の自己免疫疾患だと思っています。企業に入る、家庭を持つなどすると身体矯正が入って相当に補正されますが、呪いが強すぎる場合はどうあがいてもだめなので、潔く諦めて作品を世に出すことを考えたほうが生産的かもしれません。

 

 

呪われてるのでゼミで格闘するの巻。

 

私は「消費が通用しない」場に居ないと、厳しいです。私のblogで廃墟や珍スポットのレポートが激減したのは、結局それまで異端でオンザエッジだったものが、ネットでブーム化し、万人の「消費」の対象と化し、誰かの追体験にしかならなくなったためです。全く廃でも珍でもないではないか。ちくしょう。

 

このややこしい信条は、もう墓に入っても変えられないと観念したので、はらをくくって「作家」の側に回ることにした次第です。これなら「消費」のジレンマに苦しむことはない。と思ったら次は産みの苦しみがありました。わあい(白目)。

 

そういうことで表大のゼミに通っています。

 

表大の1年目は、多角的なカリキュラムをこなしていく段階ですが、2年目以降の「ゼミ」では一気に「なぜ自分は活動を行うのか」「自分が見たものは何だったのか」「そこに写っているものは何か」と、答えのない答えに向かって歩いていきます。道を逸れて溝にはまったりもします。いや答えは既にあるけど気付いてないだけかも知れません。どうかな。

 

溝を見つめるとき、溝もまたこちらを見つめ返してくるのだ。

 

この日のゼミは「作品のテーマタイトルを考察する」ということになりました。生徒の調子、様子から先生がアドリブでその日の進行を決めます。私の所属する「ゼミ3」を受け持つのは表大の総合プロデューサー:畑先生です。

 

 

先行は、雨溝(いわゆる「みぞ」)を特集する楠さんです。

けっこうな作品枚数で、机を増設して作品を並べ、可視化しました。手ごわい量です。「前回は40枚ぐらい並び順を決めたので、その続きです」 ??これどうやってセレクトしたら良いんでしょう。

 

先生「サブタイトル決めな、選ばれへんよ」

主となるテーマタイトルは決まっていましたが、これまでサブタイトル扱いだったフレーズをメインとして繰り上げたため、急遽サブタイトルの検討が始まりました。

 

メインタイトルは「日本の風景・雨溝の生態学に設定されました。

 

この後に続くサブタイトルがないと、

 

ないとですね、

 

  

ないと色々困難な様子。

 

 

これはきつい ( ゚q ゚ )

 

溝の天国。

 

 

この段階に来るとある種の禅問答というか、「写真が何を語ってるかをよく聴く」という作業が必要になります。

写真の特性として、外界の複製であるがゆえ、当人が認識しているよりも更に先の――外側の世界、撮影者の意図せぬ世界の姿が、写り込んでいる可能性があります。その到来を、いかに認識するか。読解の作業が必要です。

 

この雨溝の写真では、実に様々なものが写っています。例えば溝の中には、植物を初めとする生命の息づいている様子や、四季そのものの移り変わりがあります。一方で、様々なゴミが横たわり、身を浸し、漂い、都市生活者の生の痕跡があります。また、溝というシステム自体に目を向けると、現代の都市の設計コンセプトや、保健衛生、公道と私有地との境界、或いは未来に遺構として掘り出されるときの姿が髣髴とされます。

 

と、写り込んでいる情報量が多いので、どこを主軸とするかが大変ですが、そこは昨年からテーマについて何度も議論してきただけあって、小一時間ほどでサブタイトル素案の閃きがありました。議論は重ねるべきものだと実感しました。ちなみにひらめいたのは先生です。すごいです。

ブレストしてて痛感しましたがこの作業は自分一人ではきついです。人様の作品ならまだ何か言えますが、自分自身の作品だと・・・。

 

  

ブレストから決定打が打ち込まれたの図

 

雨溝の持つ機能の本質を問うたことで、「流れ」と「堆積」というキーワードが見出されました。何度も議論を重ね、既に個展を2回もされている楠さんだから出来たのだと思います。

この日の時点では「流れと堆積の自画像」というサブタイトル案が生まれました。これは、

 

ねたばれすると勿体ないので、次回の展開を待つことに致しましょう。

乞うご期待。

 

 

 

お次は私の番です。

 

私は都市生活とサブカルチャーとが不可分に入り混じった現代の感性について、都市の姿がゲームやアニメの世界と交雑する姿を可視化して表そうとしています。

 

がん細胞のサンプル集のような作品群

 

 

( ´ - ` ) がん細胞コレクターかよ。

 

 

 困った。これは何だ。

 

「雨溝」という構図のフォーマットが固定化されている楠さんと真逆で、私は被写体、構図は完全にフリー。なおかつ、ストレートも変形・合成もあり、合成の手法も様式も自由という、がん細胞のごとき自由の極みにあります。無政府主義者ですかね。※当人はよろこんでいます。

 

挙句の果てに「自宅の寝室、寝具もまた都市の一部である」と見なし、テーマを拡充させ、都市生活そのものを扱うことにしたため、リアルに自宅のふとんを梅田の都市群に放り込むことを模索しています。 

というのも、そのぐらい視座の拡張を進めないと、「都市生活」なんて捉えられないのでは、という疑念があります。そして、日常生活を軽やかにスナップした程度では、何かがごっそり全然足りない気がしています。何かが足りないような。愛? セックス? パートナー? 死? 花? 空? 電線? 影? アスファルト? いやあ90年代までならそれで良かった、でも今、2017年現在、もう通貨が電子化されてるんです、そういう世界に生きる日々が、そんなスナップ撮ってて捉えられるものなのか?疑問です。

むしろ我々の認知は何層か水平にスライスされていて、閲覧途中だったWeb画面、セーブ・中断していたゲームデータなどが、現実とバトンタッチして次々に切り替わったり、ときに暴力的に垂直に割って入ったりし、複数の世界の認識レイヤーが重ね合わせになっているのではないか。

その主力レイヤーの一つとして、サブカル(=ゲーム化した脳)があるはず。これを都市景と抱き合わせで語ることは出来ないか。

 

 

現代人には以下のような認知もあるわけなので、それらを参照しつつ作品化していく。

 

matome.naver.jp

 

上記のような視座については、スマホや持ち運びの容易なゲーム機の普及により、「映像に溺れている」「ゲームのしすぎ」といった病理として語られるのではなく、現代人が獲得した感性の一種として認められるべきではないか。そこには従来にはなかった形の出逢いがあり、新しい種族とコンニチハすることが期待できますよ。

 

 

( ´ - ` ) タイトル再考しましょう。

 

 人工的に作られたはずなのに、生物界の面々と遜色がないようなお姿。

 

 

従来のタイトルは「都市の棲息者」でした。

これは課題があり、

・「都市」というワードはデジャブ感(使い古されている)

・ふとんに象徴される「都市生活」はフォーカス外

・サ行が多くて音感が気持ち悪い

・視座がモンスターの発見・遭遇に留まる(それ以上の問題提起がない)

 

 

( ´ -`) タイトル再考しましょう。

 

 

サルパのような連続した構造を持ち、深海に光る生物(疑似)

 

 作品ブレストで共通して注目、指摘されたのは、私見も交えますと

・生命感がある、息づかいがする、生きている

・作者と被写体との関係性=親しみ

ゲーム脳を持った人間にだけ見える世界

・都市部~在宅を包括した都市論

サブカルが生活、感性に密接

 

なるほど。 

 

家庭と異次元のはざまをうごめくウミウシ(疑似)

 

問題なのは、なんで私が半ば無意識でこういうものを産み出す必要があったのかということです。どう考えてもおかしい。必要があるからやってるはずですが、その必然性がまだはっきりとは見えていません。なぜストレートフォトによるドキュメンタリーではないのか。

就寝や移動、遊興といった都市生活の「場」そのものをダウンロード先に指定して、直にゲームデータをインストールするようなことをしています。いわゆる「写真家」が忌むような手法。また、ゲーム脳と言うても、この5年間でやったゲームは、パズドラ、FFBE、シノアリスだけです。ゲーマーですらない。

 

 

 葉緑体で満たされた肉厚の海底生物(疑似)

 

ただ、色んなゲームプレイ動画を見てますと、昨今のゲームはパワフルです。都市空間、都市生活そのものを完全にトレース、コピーしており、ゲーム空間の中で「都市」を再構築してしまっています。アニメの描画もえらいことになっています。都市より都市っぽい。

逆にこちら側、物理の現世のほうが、力弱く感じることもあります。加齢のために都市への耐性が出来たからか、それともこの国の超高齢社会、人口減、都市の縮小化が効いているからか。

 

都市の持つ「カオス」という性質に着目するならば、もう90年代までの都市とは別の世界に突入していることを認めざるを得ません。金村修の時代までが都市の全盛期だったと言いたくなります。渋谷駅の再開発はすごいけれども、それと都市がカオスで力強いかとは別問題です。 

 

 

うごめいている機械の嬰児 

 

おかしい話なんですよ。都市を歩いて、触れて、それで力を感じるならば、わざわざ合成なんて不純なことはしません。大学時代は全てストレートのモノクロです。今、何かがおかしい。なんでわざわざレイヤーを重ねないとリアリティがないのか。私が映像酔いしているだけなのか。或いは…。

 

ここで「都市」の二義性を整理しましょう。

 

・ゲームやアニメ内での都市:

カオス、迷宮・ダンジョン、近未来、自己増殖、崩壊のイメージ。かつて期待されていた都市イメージを映像で再構築し、カオスを楽しみ、深入りした探索を可能としたもの。

 

・現実の都市:

老朽化、コンパクトシティ少子高齢化、全国一律化、観光資源・訪日外国人向けのサービス化。監視と管理の場。マーケティングによる洗練されたデザインの実装。ハコモノ化。

(同時に、従来からの特性はまだ持続)= 圧倒的規模の建築、未来を見据えた都市計画、終わらない再開発。消費(買物、食事、遊興など)の一大拠点、祝祭、交通、混雑、カオスとコスモスの衝突場。

 

 

 

この二つの「都市」が一人一人の人間にあると思われます。で、現実側の都市が今、けっこう危機的というか、力――勢いや存在感を失っているのではないかという仮説(疑念)を抱いています。

 

( ´ -`)

◎なぜ都市の写真がゲーム界の幻獣に浸食されるのか? 

 

(仮説1)現実の都市は弱体化しつつあり、免疫・抵抗力を失っているため、サブカル上で再現された理想的カオスとしての都市に力負けし、後者の世界から新しい生物種が漏れ出してきた。それらを撃退する力がないので、新生物たちは勝手に増殖を始めている。空き家に虫が湧いたりカビや雑草や繁茂していくのと同様の現象。

 

(仮説2)現実の都市は観光化、デザイン化を推し進められ、サブカル的世界観に歩み寄った。サブカル側も、高度に発達した映像技術により都市を再構築した。これにより、物理からサブカルへ転写された「都市」は、今、サブカルから物理へと更に「逆転写」されつつある。その先触れとして、新生物たちは現実都市のパーツを依り代として憑依、実体化し始めている。デジタル・アニミズム的な現象。

 

 

立ち位置として①はややネガティブ、②はフラット。

 

 

これは都市空間や都市生活が、次の段階へと移行しつつあることを示していることの兆しではないのか。

大都市のような都市空間、構造体をそもそも必要としない社会・・・? アマゾンプライムはめちゃくちゃ有能だと聞いております。もう「買物」の概念が変わったよね。そもそも銀行手続きがスマホで出来ている。VRとか3Dが進歩すれば対人関係も3D(4D?)化したSkype、LINEでOKでは。となると3Dビジュアル用のデータ状のメイク、衣装が販売されて、逆にリアル物理の需要が減衰、ファッション店舗が要らなくなって複合商業施設がやせ細る・・・かも。

ただ、賑わいや祝祭の空間としてのニーズは尽きないはず。ハロウィン仮装で街を練り歩く行為、あれはまさに都市空間でなければできない。また、ヒトがヒトである以上、飲食は不可欠なので、飲食店は電子化できない。デリバリーは進化するだろうけど。

 

 いずれにせよ、そんな分水嶺としての都市に出現した新生物たちをどう認めてやればよいか。ヒトからデジタル・デビルへ主役交代、新しい住民票の発行手続き。 

 

ブレストの結果、都市生活者と近親な、新しい存在を認める方向性に。

 

私自身の考えがまだ表層にいるので、今回はキーワードの模索で終了しました。

このテーマは、単にサブカルがどうのと言うだけでは説明がつかず、反対に、都市がどうのと言うだけでもまた説明がつかず、大学時代に学習放棄していたことが悔やまれます。わあい。取り組むのが10年早ければ・・・

 

 

 

 

ラストは楠田氏。

お勤め先の三重県松阪市で目の当たりにした、徐々に衰退していく都市の姿を捉えておられます。ずばり「スマートシティ」ど真ん中。うわあ。

 

 

これまでの合評では、バリバリに近未来の異世界をイメージしたモノクロ写真が提示されていました。その名も「アルファヴィル」シリーズ。

しかし「ゴダールを引用することと、現在の地方都市の置かれている状況と、一体どうリンクさせるのか」という問答があり、「一度なにも手を入れてないカラーの状態で持って来ること」が指示され、すっぴんのカラー写真が並びました。

 

いいんですよこれが。

打ち捨てられた、さりげない存在を掬い取ることに長けておられることがわかりました。かわいいけれど、町はひたひたと、消滅の方へと歩いて行っている。

 

そういうわけで、都市の現状に対する問題認識は私と根底で共通しており、学ぶものがあります。不滅だと思ったんだけどなあ都市。いや。3D~4D空間内が次の都市論の舞台になるかもしれません。現実の都市は大量のサーバーとそれを物理的に防御するシールドだらけになるか。どうかな。未来か。ワタミはしぶとくリアル店舗を展開しているはず。医薬品メーカーや健康産業ベンチャーとコラボしてデータ取りそうな気がする。グーグルが居酒屋を出しているかも。コンパの口説きとか上司の悪口などが全て記録されビッグデータ化されるというオチがつきます。いやな未来だ。

 

 

しかしこの空は、まだゲーム化される余地はございません。空は空ですね。ゲームデータの逆転写を拒む、深い力を感じます。空や太陽はゲームの新生物に浸食されない・・・何か重要な鍵があるように思います。いい夕焼けでしたね。いいことありますように。合掌。

 

 

完。