写遊百珍

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【ART‐写真】アントワーヌ・ダガタ 写真集「AKAANA」トークイベント @梅田 蔦屋書店

【ART‐写真】アントワーヌ・ダガタ 写真集「AKAANA」トークイベント @梅田 蔦屋書店

 

H29.7.29(土)

 

 

梅田のルクアの蔦屋でアントワーヌ・ダガタのトークショーがあるということを聞き、学校(写真表現大学)を飛び出して、汗でベトベトしながら聴講に駆けつけました。いやあベトベトしました。何とか間に合った。ベトベトしました。

 

 

写真家に限らず、表現者という存在について、私は2種類に大別できると思います。一つは、憧れの対象、その人のようになりたい、彼・彼女のような作品を自分も作りたいなあと思う人。もう一つは、凄まじい人。極地にいる人。真似たら死んでしまう、絶対に自分はそうしたくない、むしろなんでこの人死んでないんだろう…という人。ダガタ氏はどっぷり後者の方でした。

 

<イントロダクション>

先日、赤々舎から出版されたばかりの写真集「AKAANA」(赤穴)をめぐるトーク。ダガタ氏、写真批評家・竹内万里子氏、写真研究家・青山勝氏の3名が回していく。

 

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写真集「AKAANA」 

 

 

ダガタ氏の存在は知らなかったが、元AV女優で現在はフォトアーティストとして活躍している大塚咲が出演していた映像作品が、彼の作品だと後で分かり、納得した。彼の世界は言語化するのもヘヴィな状況なのだが、ダガタ氏が実によく語った。交わされる言葉は最初から最後まで、彼自身がどう生きて、どう在るのかという実存主義、思想論であった。つまりダガタ氏は、思想家であった。

 

ダガタ氏はマグナムで活躍している写真家だが、トークの入口から既に「私は麻薬常習者だった」「17歳の頃からマルセイユで12年間のあいだ路上生活者だった」「自分の人生を(芸術を用いて)極限まで推し進めていきたい」「生存を賭していく」と言い、これまで想像していたマグナム構成員のイメージとかなり異なる。

 

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目の前にいるのは優しそうなおっちゃんだが・・・

 「これから流す映像には、始まりも終りもなく、非常に混沌とした、混乱したものであることを了解いただきたい」との断りを踏まえて、これまでの作品のダイジェストがスライドショーで流された。

 

 

<スライドショー>

整然と捉えられた家屋・建物、家屋・建物の写真の整然とした列

裸の女性   女性?  肉、

性行中の二人、肉、女性、(暗黒)

男の顔、男の顔の作品の整然とした列

リストカット痕の刻まれた腕、

裸の女性、叫び、喘ぐ女性の顔、顔とも肉ともつかない肌色、髪、(暗黒)

叫び?喘ぎ?顔? 叫び?

ブレて溶けて流れる二人の肢体、 (暗黒)

投げ出され横たわる体、垂れ下がる腕、腿、おぼろげな輪郭、(暗黒)

(暗黒) 唇?  (暗黒)  眼??

暗黒   ブレて溶けた肉体

整然とした家屋の写真の列

ブレて溶けた肉体  ブレて溶けた禿頭? 肉塊

股間、開いた股間、血のようなもの 闇 (暗黒) 

 

(目にした瞬間で感じたこと)

・ずっともがいている、終わりのない高熱でうなされている

・誰かとつながっている、それも定かではない、相手も自分も突き放している、

・死体か生者か正直わからん 区別がない

・生きている がどうやって生きているか分からない

・作者(自分)の体か相手(女)の体か区別できない、亡霊の世界

・気持ち良いようには見えない、叫び、現代のフランシス・ベーコン

・写真の文法、常識、愛その他多くのものを解除された後のすがた

・生きているのに生から放り出されている?

 

 

 (・_;) ぐう。

10数分間のスライドだったが、切り替わりはやや早く、大量の、闇に満ちた、肉とも人ともつかないイメージが蓄積され、自分の言語基盤が浸食され、ややおかしくなる。なにこれ。ナン・ゴールディンが深く猛毒に侵されてゾンビ化したような映像世界。もはや愛や性などという言葉が通用しない。

また、自身の性交、挿入を自ら撮るという手法は荒木経惟を思い起こさせるが、荒木氏の作品はひとつの舞台のように、女性と共謀して劇場を作っている感があり、また、女体性への崇拝のようなものも感じられたり、見る側は「見る」という視点を強く持たされる。ダガタ氏の映像は視点を持つことが難しい。見る側が「見る」ことを維持できなくなる、知らない間に闇に立たされる危うさがある。

ダガタ氏は自分の表現活動について頻繁に「感染」「汚染」という言葉を用いたが、そこに引きずられたわけではなく、確実にそういう効果がある。

 

 

 

以下、トークの概要を書き起こします。

 

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森氏:

写真を見て分かるとおり、ジョルジュ・バタイユのことを考えずにはいられない。バタイユは人間の極限の感情について、神聖さとエロティシズムの二つがあると言った。後者は、呪われたもので、孤独の中に放置される状況である。ダガタ氏ほどこの点を追求した作家は他にいない。

 

青山氏:

前作「Anticorps 抗体」の翻訳を務めたが、こんなしんどい仕事はなかった(納期、密度の両面で)。ダガタ氏の写真集は写真と言葉から成るが、その言葉はマルクスギー・ドゥボールバタイユからの引用に満ち、哲学的かつ詩のようなもので、決して写真の解説などではない。写真を見てもテキストは分からず、混沌としている。写真の構成も、グリッド状に無数の写真を配置したり、延々と果てしなくイメージが続く。「初めがあり、終わりがある」ものではない。

 

ダガタ氏:

蓄積に「限度が無い」というのは大事な概念。

個人、個体でいるということはどういうことか。存在を作っているのは「狂気」「暴力」である。私は無神論的な存在論を展開しているのかもしれない。

私のパラダイム(認識の枠組み)は、①欲望、②恐怖である。これらが「極限」への追求を可能とする。

言葉とイマージュ(image)は、どちらもがどちらをも超えることがある。言葉は、もう一歩先へと自分を持ち上げてくれる。そうやって常に「先へ」と行くことができる。

 

 

<写真集「AKAANA」について>

ダガタ氏:

全体は3部構成になっている。舞台は日本。1部は、古典的。個人、出会い、現実との直面。言葉を通して現実と向き合う。バタイユ「マダム・エドワルダ」がシナリオの元。

森山大道と出会ったことが大きな影響を与えた。現実と写真の関わり方について、現実をアメーバのように、物理的に写真家の視点汚染していくという思想に触れた。

 

2部は、自分のシナリオを実行に移す。7人のモデルとなる女性に出会い、4か月を要した。互いに通じ合う言語はない。ただ録音という形で女性らの声をおさめた。毎夜の経験(性行)をビデオ録りし、極限状態に到った。彼女らの自分の人生そのものと写真との対峙であるが、これは不純な関係である、どちらが勝つということはなかった。

 

3部は、写真がアメーバ的に増殖、イマージュが蓄積し、繰り返される。モデルらへの挑発から、「本当の関係」に至った。彼女らとのメールのやりとりを行うが、Google翻訳を使っており、そこでもカオスな状況が生まれた。そこで彼女らの人生(現実)の言葉が、写真に打ち勝つ瞬間となった。私は写真なしで彼女らとの関係を結ぶことができた。

 

写真集のタイトルを決めるのは苦手。

今作「AKAANA」の発想の元になったのは、①出版社の名前(赤々舎)、②日本の国旗、③穴―女性器、④日本で泊まったホテルの回転ベッドが赤かった、その印象が強く残った、⑤モデルの女性が儀式のように「私は穴」と繰り返して言っていたこと、等。

作品作りはプロジェクト的には進めない。写真が遠くへと行く試みをし、常に失敗する。その欲求不満から、暴力的になってしまう。

 

 

(元々は映像作品として制作された「AKAANA」、写真と映像の違いについて)

 

ダガタ氏:

写真と被写体は不平等。だがビデオの場合は被写体の自由度が上がる。映像の中で言葉を発することができ、写真家の外に存在することが可能。

彼女らの言葉はリアル。作家のフィクションを言葉が超えて、現実に戻ってくる。

 

 

森氏:

ダガタ氏は遠くへ行こうとして到達できず、失敗を運命付けられている。写真は「常に」遠くへ行くことに成功しない。

私は写真を見て非常に戸惑う。もし成功がないとしたら、私は何を見ているのだろうか? でもダガタ氏は極限から何かを持ち帰っているのではないか、でなければ私達は彼の写真を目にすることができていないのでは。 

 

 

ダガタ氏:

それが私の責任である。遠くへ行こうとし、心身は極限で、正常のギリギリの状態。神や規範を破壊して――セックスや薬物等によって、押し進めた。

外から見れば私は人間の屑になったかに見えるだろう。

 

「失敗」については、体がついていかない、燃え尽きた状態。しかし生きることは諦めない。写真集「抗体」の表紙は、AIDSに感染した女性との性行中のもの。他者との関わりを少しでも持ちたいという中で剥ぎ取られたイマージュである。

 

 シチュアシオニストイデオロギーは、人生と芸術は暴力によって結びついている。どちらが強くてもどちらかが壊れてしまう。人が生きていく以上は芸術は成り立たない(人生を壊してしまう)。よって、芸術の亡骸の上に人生を表明することになる。

 

12年間ジャンキーで、言葉も写真もない中で、現実だけがあった。そんな中で「AKAANA」を撮った。モデルの女性たちは悲劇的な立場にある。娼婦、ストリッパー、レイプ被害者、男性に支配されている等。私は彼女らとの経験に形を与えなければならない、しかし、その関係は不純である(自由の不平等―自身は作品制作による生存の自由があり、彼女らには生存の自由がない)。

 

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以上が、トークイベントの概要です。

 

写真集は、なぜか非常にあっさりしており、映像インスタレーション作品がそのまま平面の紙メディアに落とし込まれたような、期待と違った内容でした。あれ? 話が面白かったのに写真集には食指が動きませんでした。サイン断念。

縮小された写真が曼荼羅のように無数に並び、ページを埋めて、モニタ画像のように光を放っているのですが、一枚一枚をボディーブローのように重く叩き込んできてほしかったのが願望です。むしろ前作「抗体」の方が救い難くドロドロしていそうで気になっています。赤々舎HPでは再版検討中なので、何とか頑張ってください。

 

 

久々に「人が生きるということ」がどういうことか、言葉の上でのやりとりながら、言葉や制度を剥ぎ取った生のレベルで触れた気持ちでした。

 

人は、幾重にも社会的な規約や保証を衣装のように重ね着して、この社会に立っています。それを一旦脱ぎ捨てて解除したり、ほころびを見つめたり、あるいはそれらの衣装が裸の王様的な状況ではないかという指摘をするのが文学や芸術――「表現」の業でもあります。本作はその極致で「生」を見るものであったように感じます。

翻って私自身を思えば、Web上で流通させる画像や言葉は自主検閲の嵐であり、炎上、クソリプ、身元追跡、その他ささやかな衝突や批判を受けないよう、無害化のフィルターを何度も通してでしか生きていません。それ以上のことを試みることにリアリティが無い、というのが正しいのかもしれません。ダガタ氏と違って、私(を含む多くの人々)が「生きる」というのは、そうしたプロトコールや安全化フィルターで雁字搦めになって生きている・表現したりする不自由さこそが、リアルなのでしょう。真似したら死ぬと思いますし。

 

ただ、ダガタ氏が交流を持った「悲劇的な立場」の女性モデル達の状況は、他人事でしょうか。彼女らは主に外的要因から不安定な状況に立たされている方々のように推察されるものの、しかし例えば「東京喰種」のように、一般人との生理的・根源的な「生きる」レベルでの差異による苦しみや葛藤を抱えながら、それを押し殺して日々を生きてきた人たちなのではないでしょうか。

それは、もっと身近なレベルで多くの人が、まさにグール同様、素性を隠して、ささやかな「極限」の日常を隠れて生きている可能性があります。どこにも所属(回収)されきらない、投げ出された肉体であるこの「自分」を、どうやって生きていくか。答えも結論も無いのですが、それでも「やっていくしかない」という境地、そのイメージを、本イベントにおいて垣間見た感があります。