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写遊百珍

関西をメインに、美術館・アートイベント、登山、廃墟、珍スポットなど珍奇なものをご紹介。

【ART―写真展】KG+(京大吉田寮、アートスペース虹、ギャラリー108、ギャラリーパルク)

【ART―写真展】KG+(京大吉田寮、ギャラリー108、アートスペース虹、ギャラリーパルク)

 

 KYOTOGRAPHIEだけでなく、サテライトイベント「KG+」(ケージープラス)も並行されていて、回るのがたいへん。

KG+は個人の作家さんなどがあちこちのギャラリーで独自に催す個展などで、事前審査を経て認められた展示について、KG本体とリンク付けて広報物やHPにて紹介されるものです。

 

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 しかしまさか京大吉田寮が会場になるとは思わなかった。

 大学当局は耐震工事や物件の貴重性から保存の取組みを望み、数年前から吉田寮の入寮募集停止を求めていますが、ここは自治制で寮生が自主運営しているため言うことを聞いていません。いやすごい。拍手。

 

 

 

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KG+の散らばり方は微妙な距離で、使うとしたらバスしかない。しかし知らん地域のバスは難しい、目的のギャラリー周辺に行くかどうか判別できない。けっこう苦戦したよ。現在地と行先を入れたら最寄りのバス停と正解のバス種別を表示してくれるアプリがないものか。

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<今回の巡回先>

【黄】No.25 京大吉田寮 / No.34 アートスペース虹 / No.41 ギャラリー108

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   【KG+_No.25 京大吉田寮】 ○野村幹太「吉田寮

タイトルそのもの、テーマも展示会場も「吉田寮」という、ド直球の展示です。個人的にはこれがKG+でも随一の貴重かつ秀逸な取組だと思っています。吉田寮という存在自体が一つの確立された「世界」です。TV等を通じて、そのコミュニティとビジュアルのインパクトは完全に関西の誇る伝説として伝えられてきましたが、基本的には余所の大学の寮。人様のマンションに立ち入るようなものなので、実態に触れる機会などありませんでした。

さて。

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入口から、木造風にしつらえた新しい物件。うわっ吉田寮って綺麗になっちゃいましたか? 

 

 ちがいました、

 

 

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歩いてしばらくするとやや異国になります。なんだこのテント。異なる文化圏に立ち入ってきた感があります。

ここで入場受付。吊り提灯の向こうで木々の陰に隠れて潜む入口と屋根が吉田寮である。さっそく野村幹太氏の作品も見えている。

 入場に際する注意書きが渡されます。人が普通に寝起きする生活の場であるため、室内をじろじろ覗き込んだり、撮影・録画はNG。この時点ではまだ寮内の空間について想像ができていない。

 

写真が残っていないので以下、日本語による。

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作品は、吉田寮に住む住民の肖像である。説明も何もなく、淡々と写真が置かれるが、「京大吉田寮」と聞けば、自身の大学生活の記憶とメディアの記憶とを絡めて大体文脈は想像ができるので説明がいらない。風体は様々でごく普通の人もいればさすがですなあと膝を打ちたくなるまさに「それっぽい」人もいて昭和の文士のような何かを湛えた感がたまらない。しかし共通して、社会(会社)生活に慣れ親しんだ身であればあるほど彼ら・彼女らの表情の初々しさ、目の澄み方に少したじろいでしまう。一見カオスで、極めて特異に思われてきたこのコミューンの住人たちは、全くカオスなどではなく逆にピュアであり、好奇で投げかけた視線は早々に世慣れしてしまった自分自身へと返ってくる。ウッ。

 

寮内へ入る。玄関先から空気が一変して「生活」に包まれる。想像以上に密度の高い生活空間である。正面に飛び込んでくるのは黒いソファとそこに根が生えたように横たわる寮生、両脇の柱、壁を埋める張り紙と文字、よく分からない配線など、目の焦点を合わせる物に迷い、しばらく泳いで、ようやく順路を示す赤字の張り紙に気付く。吉田寮は自治制である、管理室・受付が右手にある。勿論そのまま土足で進めば良いがこれは完全に人の家だ、玄関という皮を一枚通り抜けて何か大きな生き物の体内に侵入したように感じる、彼らの服装や気だるさはこの流れの無い池のような生き物の一部である。人の実家に無言で入り込んでいるぐらいのプレッシャーがあるなあ、靴は脱ぐのかそのままでいいのかな。戸惑ったりした。おじゃましますね。

廊下を歩き、諸室を見やって進んでいく。進みたくないほど眼が釘付けになる、情報があまりに多いので照合が始まると止まらない、もっとじっと佇んで視覚の欲望のまま眼を自動運転で情報摂取させたいところである。本来であれば住居空間は設計上の役割の区分がなされていて、人が滞在したり、移動したり、食事、排泄、就寝など生活行動に応じた役割を持たされそれが分かるように素材や照明、間仕切りにより明確に区分されていて、人もそれに応じて振る舞いを決定するものである、また同時に身体が直接タッチしない部分の空間も「間」として計算されていて、デザイン上の美のため、あるいは空調や快適性のため「間」が機能的に確保されている。しかし吉田寮に関しては「人が棲んでいる」という営みが設計の間仕切りから漏れ出し、生活用品が無造作にあたりに置かれている。ふと部屋の中が見えると、布団やシーツのようなものが部屋の真ん中に折り重なっていたり、ある程度整理されていつつも物がトランス状態で踊って狂って散らばっている、その中で畳が見えていたり畳と呼応して雑誌やペットボトルの数々が浮かび上がってくる、その物量と置き方の無意味さから個々の部屋の役割や住人の生活などバックグラウンドが見えず混迷している、それは同じ大学の生徒という相当に同質性が高く社会的には無所属、無属性の人間達が共同生活を送る場であるから猶更である、反面、無秩序に汚いだけではなく、それぞれの住人の生活スタイルに過度に沿った結果の状態であるから、ミクロの身体性においては最も快適でやりやすいところに望ましい物が置かれているなどの具体的秩序が存在していると思われる。100年を超える歴史の中で建物の側が人間の生活臭に染まってゆき有機体と化したという構造的な理由もあるだろう。そこに置ければ空き瓶や空き箱は並べる、かけられれば洗濯物は干すし、貼れるスペースがあれば告知の張り紙を貼る。NHKの取材でTVカメラが入ることに関するカメラ写り込み可否の意思表示を求める張り紙、LGBTに関する勉強会の張り紙、鍋釜レンジおたま冷蔵庫タッパー段ボール入り食材に菓子、それらは衣類や毛布や布団めいた何か廃棄予定のもの廃棄するかどうか判断されず放置されたもの明らかなゴミ等とはみ出していて視野に飛び込んでくる。一方でそれらは寮の自治会の決まりによってルールの下に統治がなされていて完全な無秩序などではなく「住環境にしては非常に粗雑」のレベルであり世間的に言われるゴミ屋敷等とは一線を画している、その律がぎりぎりの線でしっかり見えるから集団生活の場としての貴重性―魅力が浮かび上がってきて多くの人を魅了しているのかもしれない。入寮者は自治組織の構成員として決められた役割分担を務める部門のどれかに所属しなければいけない、廃墟とは異なりこの場は今まさに生きていて、今もこのすぐ隣で寮生が寝たり起きたりしている、瀬戸内国際芸術祭と異なり住民参加による観光的な取り組みではないから全員がwelcomeであるわけではないだろう。「~でない」と外堀を埋めながら語らなければ直接的に言葉で指し示すことは失礼に当たるような気がした、何せ語ろうとすれば言葉は上から下へと流れがちである、廃墟だとかレトロだとか懐かしいだとか京大らしいだとかいう修辞がまず現れるが静かに眼をやっていれば言葉の第一波はじきに流れて消えていく、その後に浮かび上がってくるであろう言葉を信じてまず初歩的ながら第一次の関係性としてこの吉田寮と結んでみたい、しかし滞在時間の短さがそれを容易にはしない、記憶機能の全てはカメラとスマホに移管してしまってこの身体は既にそれを操作し段取りをつけるためのアシスタントとしてしか働かない、許された立入可能エリアは非常に限られていて二階へは上がることはできない、洗濯機がある、これは酒瓶だろうか、張り紙の時系列が分からない、撮りたいなと思うが動機が野村氏に比べあまりに個人の生理に則していて理由になっていない、生理は厄介で人に説明ができない。歩くたびに頭が何かに当たりそうになったり足元で床が軋み音を立てたり床材がたわんで沈み込んだりし平衡も揺さぶられる。時折すれ違ったり遠目に見る寮生の横顔や後ろ髪といったパーツは十数年前の自分自身のそれであり、無数にお札のように貼られたビラ、チラシの書体や語彙や文体も相当に身に覚えがある、決定的な事柄からは猶予されているような閉じた優しい時空間で、繊細さと真面目さと衝動とが波紋を打っている、踏み抜きそうな床で不安定になった身体に、彼らのミニマルな学生の時空の円環があり、そこへ我々鑑賞者の少し年を経た時空とが連鎖的に円環していく、その両者が交わるかどうかは定かではないが感傷的に連結させてしまうことを野村幹太氏のポートレイトは明瞭に拒む、私達はかつて彼らに似た時空に居たかもしれないが彼らの時空は彼らにしかなくそして澄んでいて土足では踏み入ってはならない、歩を進めては全感覚的に混乱を来たす、中庭には鶏がいて無造作に歩き回っている。 

 

 

 【KG+_No.35 アートスペース虹】

○福田真知「essence / 風景」

 

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町の小さな床屋のような、ささやかなギャラリー。後で知ったが現代アート系のギャラリーで、やなぎみわ氏やヤノベケンジ氏も最初ここで個展をしたらしい。まじかよ。

 

 

 びっくりするぐらい簡素でかわいい。

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 /(^o^)\ 

 

 

 なんすかこれあ

 

 

 

めちゃくちゃ難しい展示きた。あかんこれはわかりまsen。

 

 

 

みなさんなんだとおもいますかね。

 

 

 

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/(^o^)\ うわあ 

 

 

 

/(^o^)\ インスタレーションだ!!!

 

 

 

 

インスタレーションとは

ある空間に何かを置いたり、動かしたり、光らせたり、音を出したり、像を映したりして、時空間をあれすることで何かを表現するあれのこと。言葉やイラスト、写真といった既存の二次元媒体では伝えられないもの・ことを鑑賞者の五感に訴えるのに最適である。しかし相当に観念的・哲学的な意図から設置されていることが非常に多く、作者の意向や活動経歴、所属ジャンルにおける先行作家や時代背景を踏まえずに、展示だけ見て趣旨を当てるなど、目をつぶって野球やゴルフをするに等しい無理ゲーである。

 

 

ちゃんとポートフォリオよもうか。

 

あっすごくかっこいい。

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なんだこの確かさと不確かさの合間に揺れる存在感は。

 

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写真だけど見たことのない写真、しかし写真である。

何百枚もの写真を、透過率を0%にぎりぎり近づけて重ね合せているとのことです。よく思いついたなと感心します。写真をやってる人間だと、レンズや絞り値など撮影工程の中で像へどう干渉しようか考えますが、光に揺らぐこの世界の揺らぎを表わそうとするに当たって、そういう手法もありましたか。

 

最近、画像編集が手元で手軽にできるようになったことを踏まえて、像やイメージ、写真というメディアそのものをメタに問い直した写真作品を普通によく見るようになってきました。その中でも、みだりにイメージの氾濫におぼれることなく、写真という文体を一定堅持しながら、具象と抽象のはざまを突いて、鑑賞者へ作品を届けようとする活動が評価されています。写真って何なんでしょうか。

 

 

 

 【KG+_No.41 ギャラリー108】

○30 Years of 「Kyoto Journal 」:写真家多数

 

 これ面白かった。数えきれないぐらいの作家の写真が小さな古民家にずらり。

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KG+の旗がなければ普通の民家。

 

こんちは。

 

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こういう家いいなあ。うちも年中KGみたいなテンションの内装にしたい。 

 

 

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展示されている写真は「京都ジャーナル」という英語雑誌でこれまで30年間にわたって掲載されてきたものから厳選されています。京都を初めとして日本やアジアについて西洋に紹介してきた書籍ですが初めて見ました。

 

 

 

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 ジェームズ・シュネーベール「皆既日食

1893年に撮影されたものだというすさまじい貴重な写真。 

 

 

 

入ってすぐ全作品の作家名、タイトル、作品の由来や意味についてまとめた冊子を貸し出してくれます。それ300円とかで売ってほしいんですけど…。すごくいい資料で、意味を理解しながら一枚一枚の作品を観ることができるため、いつまでも居られます。

 

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 パク・ヨン・スン「怒る女たち」

韓国のフェミニズムアーティストである作家の取組み。家父長的な儒教の縛りからの女性の解放を訴える。

 

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片平善宣「酸ヶ湯温泉」 

JR東日本のキャンペーンシリーズのために撮影。男女がはちきれそう。

 

 

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クリストファー・マーレー「玉虫のモザイク」

Kyoto Journal紙媒体での最終号に際して、生物多様性を伝える一枚。

 

 

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吉永マサユキだ。

 

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バックナンバー。雑誌として掲載されたものを見ると、同じ写真でも全く異なって見える。やはり写真は写真で見る方が迫力があっていいなあ。

 

 

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 ハロルド・ユージン・エジャートン「原子力爆弾爆発」

世界で初めてミルククラウンを撮影した例の人。超高速撮影の研究者。これ陶器か何かのオブジェの写真にしか見えないのだが、どうも本当の爆発の瞬間らしい。他にも原爆の爆発記録写真を多数残している。

 

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 部屋としてはこんな感じで非常に小さいのだが、まさに小宇宙、深入りすると抜け出せません。ずっと居られます。

 

 

 

 【KG+_No.37 ギャラリーパルク】

○麥生田 兵吾(むぎゅうだ ひょうご)「Artificial S 4」 左手に右目|右目に左手

 

 茶を飲んで一休みできるところを探して、三条通寺町京極商店街あたりを歩いていたら突如現れました。

 

一見超クール。

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このスタイリッシュさで、光と影と映像的イメージ反転乱舞が来るかと思いきや、 

 

 ぜんぜんちゃうの。

 これが超・手強い。

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 何気ない、人々が何か動いていたり、留まっていたり、人などいなかったり、

日常だったり、日常?かどうか不明だったり、

 

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大きさ、展開する面だって、天地バラバラ、しかしW・ティルマンスの発想とも違う。 

 

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一見どれもふつうの光景、ふつうの写真、ふつうの・・・ 

 

 

/(^o^)\ ふつうや。 

 

 

 

 

/(^o^)\ うわああああふつうやああああ

 

 

 

 

/(^o^)\ 普通か?

 

 

 

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超・中途半端なシーンばかりが会場に集結している。これは何だろうか。何かの光景として意味がありそうに思う、しかし次の写真、その次の写真と見ていくと、被写体の属性や場所のつながりについて文脈を見ることができない。

「中途半端」「普通」この1次感想がキーになる。ここから踏み込んでいく必要があると思う。確かに人は写っている。京都の鴨川を女子が並んでわたっているかと思ったら、廃墟が来たり、草刈りのおっちゃんたちがいたり、 国会前の原発デモ、被災地めいて崩れ果てた廃屋など、日常生活で触れる光景のような、日常から遠いような。

最初は、何気ない「人」の移動や滞在、人が居るということすなわち「場」と「行先」に関する記録の作品なのかと思った。しかしそれだけではブツ、風景的な写真がまるで説明できない。剥製制作の工場など。

構図はどうかな。こういう写真撮ったことあると思う構図のものが多い。一枚一枚の写真としては絶妙に外しておらず、むしろ画としてはピンが来ていて、構図の締まりもあって、バランスもよく、何かのシーンは確実に捉えられている。しかしそれが2枚、3枚、4枚、・・・10枚、15枚、20枚と群れになるごとに、徹底的に分からなくなる。分かられない構造をとっている?

 

 

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これは中でも相当異質で、かなり明瞭に解ろうとしてしまえる一枚である。反射やセルフやTVやと来ると、リー・フリードランダーを何か踏まえたかなと判断ができそうになる。

しかし、これ以外は読み取ることが絶妙にできない。よってコメントが出来なかった。言葉を奪う作用があります。作家さんらしき人がいたので何か感想めいたことを言おうとしたが、言葉が全く出なくて、「・・・・・・・あの ありがとうございました」なんだそりゃ。失語症になります。

そう、これは語ることができない作品。

なぜか。

 本来写真は見ている側と見られている側があり、特に見ている側(撮影者、作家)は何らかの意図、趣旨、作品コンセプトなるものを持っています。それに基づいて撮影(視る)がなされ、編集、取捨選択と並び替え(語る)がなされ、観客に何かメッセージを伝えます。

その「私(作者)が」「見ている」という文章において主語が消された、「?誰か?が」「見ている?(かも?)」という視座にもしも立ったならば、写真はどうなるだろうか。

文章の場合を考えてみよう。文章で主語の喪失、反転が起こされると、主語が書いていなかったり、語尾の受動態と能動態がごっちゃになっていたり、助詞のテニヲハの選択が狂わされたりするのではないか。

例文を考えてみる。「私は今朝パンを食べた。」という文章を変換してみます。普通のよくあるピクトリアリズムな写真だと「今朝のパンはふかふかで、もっちりした食感、朝の陽ざしと白い生地が合わさって、とても素敵、素敵な私・・・」みたいに単純明快、美の強度を底上げするでしょう。

この展示で為されている文法の変換に基づき主格にささやかな疑問符を付け始めると「部屋。パンがある。食べられてる。人が食べる。朝かな。」もう今日かどうかは全然分からない感じで。

 

それを写真(=視覚)において実践すると、このように、まるで「他の誰かが見ているような視点で私が見ているような」ものすごく脳のどっちで世界見てるんだよという視界になるのではないか、と思われます。やったことがないのでわかりません、脳出血の後遺症で言葉と世界の連携が切断されたときに見る視座のような怖さがありますが、そこまで解体されたものではありません。一枚一枚の写真における構造解体をやりまくった中平卓馬のごとき剥き出しの吹き荒ぶ暴威のようなものはないです。一枚一枚が安定していて文法が一見確かなのが特徴、それが写真間の繋がりにおいては連続しているようで解体されている。

 

 

(´-`) 的外れかもしれないのですが、考えを整理していくためにあえて書いています。

 

 (´-`) すごい焦った。いやあ久々に言葉にできない展示をみました。

手強い。

 

 fin.