写遊百珍

関西をメインに、美術館・アートイベント、登山、廃墟、珍スポットなど珍奇なものをご紹介。

【東日本大震災】宮古港

東日本大震災宮古
先日のGWに、被災地へ行ってきました。


これらの写真を撮るかどうかで非常に悩みました。
撮った後も、どうしたらいいのか、公開すべきかどうかをずっと考えて悩んでいました。
何をどうしたらいいかを完全に見失っておりました。
しかし、現地で被災した方々や、支援に来ていた方々と話したことを思い出して、自分が何を見て何を感じたかを、表に出さないことには、何も伝わらないと思い、upすることに決めました。


3泊4日の間中、被災地をずっと回って撮影していましたが、
その規模の大きさにさすがに心が折れてしまったというのもあります。


がんばれ東北とか、がんばれとかそういうレベルじゃないぞこれは。
どうしろと言うのか。この荒廃をどうしたらいいのか。
完全に心が折れて帰ってきました。
まさかここまでとは思っていなかったのです。


帰りの空港で目にした、釜石市のポスターの言葉、「心まで壊されてたまるか」に、不覚にも膝をつきそうになりました。
本当にその通りです。
たった4日間で心をあやうく壊されかけるとは、不甲斐ない話です。
流された家のことや、親族の死のことを話して下さった方々に申し訳が立たない。
自戒も込めて、upします。

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いわて花巻空港へ辿り着くまでの道中は胃が痛かった。
「なんで俺はこんな阿呆なことを・・・」やめておけば良かったと思った。もう、アホのやることは本当にアホだなと思いながらも、アホが動き出してしまっているので、それは放たれた矢が的に向かって飛んでいる最中のようなもので、どうしようもなかった。


空港でレンタカーを借りて、より一層、今まで感じたことのないぐらい重いプレッシャーと緊張感に襲われた。胸が潰れそうだった。俺は一体何をしに来たんだ? この問いを3泊4日の間中、擦れ違う全ての人から投げ掛けられることを覚悟した。「お前は誰だ、何をしに来た?」答えが無いのに問いだけは明確に想像できて苦しい。


沿岸部へ向かおうとナビを操作し、「宮古市役所」と入れて走り始め、ものの5分で、盛岡で美味い物を食って沿岸部を一切通らず今夜の宿におとなしく行きたいと思った。懇願に近かった。


なんで自分はこんなバカなことをしているのか。被災者の気持ちを逆撫でに来たのか。物見遊山だと非難されるに決まっている。誰も言わなくてもおれは自分で自分をそう思うだろう。事態が落ち着いてから来るべきだったのではないか。写真など撮れないのではないか。プロの報道が既に伝えるべきことを伝え、撮るに値するものは撮り尽くした後であろう、そこに何者でもない自分がのこのこと立ち入るのは、色んな意味で自殺行為に等しい。しかも、被災地支援とかボランティアという名目もなく、スッピンで。


なぜこんな時期に、こんな所へ来たのか。
屋久島か石垣島にでも遊びに行っていれば良かったのに。



前回(4/2)に仕事上、被災地支援ということで仙台市若林区へ派遣され、実際に被災者の方々と接し、実際に津波を受けた「被災地」というものを知ってから、自分の中で何かがガクッと崩れてしまいました。


それは、今まで自分が保ってきたこの世との関係性とでも言いましょうか。例えば新聞、ニュースで、例えばTwittermixiで、例えば職場や友人や家族とのやり取りの中で、コミュニケーションし情報の送受信を行う中で形成される、イメージとか理解のようなものですが、それが瓦解した。


ああ俺は何も知らんで震災とか被災地のことを分かった気になっていたなあという、痛感であろう。また、日常的にウェブやTwitterで見かける震災・被災地・被災者に関する情報や流言や議論、与太話を目にする度に憤慨したりホッとしたり心配したりするその心の動きすら、信じられなくなった。結局は現場から完全に切り離された者同士が交わしている余裕であり、自分たち「被災外者」の気持ちの落ち着けどころを作っているだけではないかと思うようになった。


大阪に住んでいる身としては、被災地は既に過去のものとなりつつあった。
福島県原発放射能に関する問題が今なお火を噴いていて、得体の知れない不気味な状況にあり、メディアはその経緯を集中的に追っていた。


震災の被害の規模はとりあえず大規模であり、復旧には時間がかかり、大勢が死に、行方不明になった。しかしそれが一体どういうことなのかを、一度被災地にて業務に従事してきた自分ですらも、まだ良く分からなかったのだ。

一方で「被災地では略奪が横行」「女性への暴行が」「餓死」「外国人による犯罪が増加」「あやしい輩が跳梁跋扈している…」といった、不穏な声のことも思い出された。
被災地支援に行ったとは言え、自分は仙台市若林区、そして沿岸部の荒浜地区しか知らない。
あとの広大な部分については一切知らないが、とにかく気持ちの悪さがぬぐえなかった。



不謹慎で、非常識とは分かっていたが、行くしかなかった。
宮城県北部から岩手県の沿岸部全域にかけて、本当は何がどうなっているのかを自分の身体で知ろうと思った。もし可能なら、現場からの声も吸い上げたい。被災地とコミュニケーションを取りたい。わけがわからないがそういう考えで直前に決意し、来てしまった。


どうすんねんていう(>_<)


「アンタみたいな物見遊山で来るアホが後を絶たん!」「人の家が流されとんの見てておもろいか!」と胸倉掴まれたりブン殴られたりするのは覚悟の上だった。

阪神大震災の時、市の職員が被災状況の報告のために倒壊家屋のあたりで記録撮影をしていたら、「何がおもろいんじゃ!」と住民に胸倉を掴まれたり、罵声を浴びせられたという話は聞いている。だがそれはそれで、現場とのコミュニケートの結果なので、まだこうして被災地の実際から切り離された次元で被災地についてしたり顔で言葉を重ね合っては言葉に対して憤慨したり安心したりを目まぐるしく繰り返しているよりスッキリすると思った。



いわて花巻空港からは少し北上し、後は沿岸部に向けて岩手県を真横に横断した。道中の山ではまだうっすらと雪を被っているところもあった。ますます自分が何をしに来たのか分からなくなった。


着いたらどうしようとか言っている間に、2〜3時間もぐねぐね走っていたら、宮古市内に到着した。
しかし、仙台市に3月末に派遣された時と同じく、街自体はまるで普通の様子だったので驚かされた。
M9.0という未曽有の震災に見舞われた都市とは思えなかった。国道沿いの店は営業しており、日本中のどこにでもある街だった。


あ〜〜〜('o' ) 良かった〜〜〜
宮古市復活したのか。めでたしめでたし



・・・・と思ったら甘かった。



築地のあたり、愛宕の交差点の信号は灯っておらず、警察官が手で誘導していた。
山手の方に入り、高台にかかる橋から海が見えた。綺麗な海だった。
観光客が車を停めて写真を撮っていた。海を撮っているだけではなかった。
眼下に被災地の姿が見えたのだ。


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海岸沿いの道路が折れていた。
またしても理不尽な力が・・・。前回の荒浜地区のことが思い出される。



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橋からは、宮古湾に面する住宅地の壊滅した姿がのぞいていた。


被災地の現場が近いためか、パトカーの巡回が頻繁だった。


車に乗り込んで考えた。これで取り敢えずは終了ということにしないか? 
だがそれでは他の観光客と同じになってしまう。当たり障りのない距離で、遠目に被災地を見て、観光がてら、記念写真のように撮って、帰るという。
それは絶対に出来ないと思った。自分で何かしら責任を持って、被災地に入っていかないと、何も分からないまま逃げ出すのと同じことだと思った。



後ろ盾というか、口実がないということが、こんなに不安で、辛いものだとは思わなかった。
車を下らせ、沿岸部の港町;鍬ヶ先へ進めた。
そこは完全に、静まり返った被災地だった。


誰も歩いていない。



時折、乗用車が、舐めるようにゆっくり走っていくぐらいで、誰もいない。
胸が潰れそうなぐらい、静かで、荒れ果てていた。
だが自分はここに降り立って、自己責任で向き合うと決めたので、降りないといけない。
降りられない。



困った。





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相当、逡巡して、やっと降りた。雨が降っていた。


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おそらく「宮古魚市場」あたり。
静かで、空気が重く、溜息しか出ない。


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自転車に乗った初老の男性に話し掛けられた。
「どこから来たの? へえ、大阪」「凄いもんでしょう。私はねすぐそこに住んでる者なんだけどね。もうめちゃくちゃだよ」
押し潰されかけていたところに、人心ついて、無性に安心した。


家は大丈夫だったとのこと。
堤防があり、市街地は浸水したものの、極端な倒壊にまでは至らなかったらしい。
しかし魚市場周辺の一帯は、全くもって壊滅している。
同じ街の中でここまで差があるとは。


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前回のレポートでも紹介したが、がれき撤去作業者(自衛隊など)は、まだ使えそうな物、持ち主の手元に渡るべきゆかりの物を、目に付きやすいところへ寄せて安置してくれている。
至る所でそうした物品が見られるが、持ち主は現れてくれるだろうか。


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? 飴??


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道路のがれき撤去で寄せ上げられたのだと思うが、凄まじい量。


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「あそこに車も挟まったままでしょう」確かに・・・。
撤去の手間がひどそうだ。


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建物の外観は残っているが、中身はぐちゃぐちゃ。


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総力を挙げて各地で撤去作業が行われているのだが・・・


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自衛隊などの撤去者と持ち主とが、家屋や自動車については撤去の可否をやりとりしているのだろうか。
それとも、生存者確認が済んだというだけの印なのだろうか。


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おっちゃんと別れ、再び独りでしっとり雨に濡れながら歩く。
空気が重い。



ガレキながら、整然と集めてかためられていることに気付いた。
どれほどの手間がかかることか。


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たまに陽気なやつもいるが・・・この場においては何もかもが沈んで見える。



バスがいつも通り来る町に戻ればいいなあ、



電気・・・。



多賀丸・・・。


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興味深かったのはこうした光景である。壊れているのではないかと思うようなOA機器、TVやストーブなど家電、酒瓶、灯油類は、とにかくかためて置いてある。少しでも持ち主の手に渡ればという思いが伝わってきた。


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履物屋であろうか。


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「多動OK」とは如何に? と思ったら「移動」だった。



きれいな鍋だ。早く持ち主に出会えると良いなあ。


冷凍倉庫のあたりと違い、住宅街の方はさすがに木端微塵のありさまだった。
阪神大震災の惨状でもここまで酷くはなかった気がする。



仏ェ・・・。
まあ持ち主の所へ帰れるといいよな、


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一気に重機で片づけてしまわず、こうした私物の選り分けをしながら復旧作業を続けているわけだ。
持ち主が少し離れた避難所に身を寄せていて、車も自転車も乗れなければ、なかなか回収できまい。
切ないことだ。
後ろのウミガメも切ない。


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歩きまわっている人間はほとんどいなかった。パトカーはひっきりなしに巡回している。
そして、一般の乗用車も。
速度を緩め、惨状を見ながらゆるゆると進む。まあ、特段の事情がなければ
この空気は重すぎて降りるのも辛い。


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県道259号線沿い、「電気シマザキの店」。
電器屋だろうか。


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私は確かに廃墟が好きだ。役目を終えた建築物や構造体の持つ独特の世界観に惹かれる。
だがそれはこの世の具体的な役目や機能から切り離された、世捨て人のような存在だからこそであって、
眼前に広がるこの光景は、全く違う。
これは人様の生活の場だ。誰もここを棄てていない。
木端微塵になっているが、持ち主はもういないかも知れないが、違う。
これは再生し復活されるべきものだ。


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・・・とは言っても痛々しいぐらいの重傷。


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作業者?重機?が入れるように畳を橋のように敷いてある光景があちこちに見られた。



うずたかく。



廃棄するしかないもんな、


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ついこの間までみんなが普通に暮らしていたというのに、一瞬でこうなった。
壊滅していても生活の香りは一層強く漂う。胸が痛い。



家の本当に基礎だけが残っていた。家屋は、不明。


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このバラバラのがれきが元は一軒の家だったりするわけか。



電柱をここまで無残に折るという力が信じられない。


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建物の名称不明。
破壊がひどすぎて目印がよく分からない。


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打ち上げられた船は、近付くと巨大だった。
海に戻れると良いのだが。


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TVやWEBで見ていたより10倍は重苦しく、ショックが大きかった。


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壊され尽くされ、奪われ尽くされて、現地の人も「笑うしかなかった」と語っているのを
よく雑誌等で目にした。
笑うか、黙り込んで目を伏せるかしかないだろう。


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復旧に必要な人員・日数・費用を考えてみようとするのだが、規模がひどすぎて
全然分からなかった。


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がれきの海だった。
その場では、緊張感もあって、まだ耐えうるのだが、眠ると夢に現れるようになる。


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その場が元は何だったのかが分からない。
分からないことが多すぎて・・・


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18時を回り、日は完全に落ちようとしていた。
夜が来れば、電気も通わないこんな場所では、不用心だ。
切り上げなければ。



津波を逃れた家では今も生活が営まれているようでもある。
こんな地獄が広がるのでは、気分も良くはないだろうけれども。


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震災直後に生存者の確認・救出で現地入りした作業員らは、どれほどの惨状を見たのだろうかと思うと
それもまた想像がつかない。
今や、速度さえ落とせば一般車両が不自由なく行き来できるまでになっている。
私も、ノーヘルメットで歩けたのだ。
(本来は何が起きても耐えうるぐらいの装備は必要かと)



宮古市・鍬ヶ先の一帯は、ぐさりと印象に残った。


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ご冥福を・・・


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壊滅していた鍬ヶ先を抜けて築地のあたりから市役所付近にかけて、海沿いの防波堤。
陸前高田のように、防波堤を破壊して波が街を呑み込んだところもあるが、
ここでは、防波堤は残っていた。



仙台市若林区の荒浜地区を見ていたから、被災地の悲惨さというかショッキングな破壊の光景には
免疫が出来ていると信じていた。もっと冷静になれるのかと思っていたが、
全くそんなことがなくて、ぐったりしてしまった。
どうやって復興したら良いのだ。


現場の市役所では一人でも多くのヘルプが欲しいだろう。
いや警察も消防も救急も、病院スタッフもだが、
いかん。。滅入ります。


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( ー_ ;) ぐすっ。

比内鶏おいしかったです。
朝・昼は移動の合間にコンビニで補給するばかりゆえ、せめて夕食だけは現地にお金を落とすべく豪華に。
地酒も飲みます。
美味しゅうございました。


宿が基本的には沿岸部では取れないので、一気に岩手県北部の久慈まで2時間ぐらいかけて走った。
久慈まで来ると、津波被害を免れていて、ようやく「東北地方の沿岸部」にあるべき町の姿となる。
道中で不穏な闇の気配が多数あった。
それらは全て、壊滅していた。どういうことだ。


久慈の居酒屋で、地元のおっちゃんたちが交わしていた会話。
近隣の野田町はこっぴどく壊滅し、避難生活は先行き不透明で、仮設住宅もいまいち出遅れているとか。
どこもかしこも・・・